表現の森/展示を振り返る


1_1

 

しばらくたって、改めて展示について振り返る

このアーカイブページを見ながら昨年行われた「表現の森」の展示について思い出している。他のプロジェクトの記録や「ボイス」ページの展評など、展示から半年の時間が過ぎても、新たな寄稿が読めるのはありがたい。しかし、アリスの広場のページを見ると、その記録は展覧会オープン後で止まっている。その間も回数は減ったもののアリスの広場には通っていたし、展覧会中にアリスのメンバーが展示室で詩を朗読したり、アリスと家以外の外出が難しかった若者が会場を訪れるなど感動的な場面もあった。しかしそれらを公開していないのは私の怠惰とも言えるが、書きたくない理由もあったような気がする。

怠惰なことを考える

アリスに通うようになってから、怠惰と言われる状態について考えるようになった。やる気を起こして仕事に向かうことはできるが、それを起こす能力が欠如した場合とはどのようなものなのだろう。やらなければいけない事を一旦保留して怠惰を観察してみる。しばらくさぼって、「どうしたらやる気が出るだろう」と考えていると、やりたくない理由もそこには見えてくる。展覧会がオープンした後、まず頭に浮かんだのは「彼らに無理をさせたことはなかったか」「展示の反響をどう感じるだろうか」ということだった。表立って表現することが難しい彼らにとって、本音を推察することは表情からも難しい。彼らの調子の浮き沈みにその都度不安を覚えながら、しばらくは協働という言葉を忘れて彼らと接したいと思っていた。

よくわからない展示について

展覧会が開催されると様々な反響をいただいた。アリスのメンバーも家族や友人から様々な感想をもらったようだ。私がいただいた質問で最も多かったのは『彼らの意思がどの程度あったのか』ということだったように思う。会場の情報では伝わりにくい点も否めないが、私が用意したテキストは彼らの意思で短く削られている。そして私も面白く解説することはやめた。彼らは自分の話題がとても苦手であり、表に出ることに勇気を伴う。おそらく来場者は確かな手応えを持ち帰れないジレンマも感じたのではなかろうか。それでも最終的に展示をそのようにしたのは、なかなか距離の縮まらない私と彼らの関係ともリンクしたからだ。接点の見つからない違和感が現代美術の高慢と見えたとすれば、それはアーツ前橋の美しい空間のせいであろう。それよりも何よりも、彼らはとてもシャイだ。

(執筆・投稿 滝沢達史)

 

1_21_3 1_51_4

Page Top
×