群大生と一緒に活動をつくること


群大(群馬大学)生との出会い

 僕は前橋市で生まれ育った。前橋駅前の産婦人科で生まれ、幼稚園時代を南橘団地で過ごした。小学校入学とともに、群馬大学の北側に引っ越した。僕の通った小学校への経路を阻むように、群馬大学のキャンバスはある。そんな群馬大学の教育学部には、美術の先生を目指す専攻がある。南橘団地でのプロジェクトには、この専攻で学ぶ大学院生を含む学生が数人参加してくれている。(美術大学と比べたら失礼かもしれないけど、)僕が大学生だった10年前と比べて、やや単位取得が厳しくなっているようで、アルバイトと授業の合間を縫ってサポートしてくれている。彼らとの出会いは、2015年度に行われた『大学を活用した文化芸術推進事業 アーツでであう、アートでむすぶ in まえばし』という群馬大学が主催で行った事業だった。アーツ前橋と連携して行われたこの事業は、アートマネジメントの人材育成を主目的にしていた。僕はその中で、子ども向けのワークショップを実践的に体験ながら、マネジメントを学ぶAコースの講師を担当した。プロジェクトをサポートしてくれている学生たちの数人は、そのコースの卒業生である。

ワークショップを通して、大学の先に伝えたいこと

 僕はワークショップを企画するとき、細かいところまでプログラムを設計しない。手伝ってくれるスタッフからしたら、何を手伝ったらいいのか分かりにくく、正直めんどくさいことも多いことだろうと思う。

 ワークショップにおいて僕は、一般的にファシリテーターや講師と呼ばれるポジションにいる(僕はよっぽどの理由がない限り、チラシなどから講師という肩書きは外してもらうようにしている)。ただ、僕の指示に従って動いて欲しいわけではなく、さまざまな想像やアイデアを参加者自身が発想し、提示してもらいたいと考えている。そのため、サポートスタッフにもこのスタイルを理解してもらい、僕の指示やメインテーマと設定されているものとは関係なかったとしても、参加者の声を拾える幅を持ってもらう必要があったのだ。

 このサイトを見ない人や美術館に来ない人の中には、美術に対して苦手意識を持っている人が一定数いるだろう。(もちろん美術館に行くのは好きだけど、つくるのは苦手、という人も少なくはないと思う。)その苦手意識を持つきっかけは何かと考えてみると、一つの可能性は学校の授業にあるのではないかと想像してしまう。幼稚園の頃は大好きだったお絵かきの時間が、図画工作に変わり成績がつく。うまく描けないことに成績が下がる恐怖がつきまとうと、描きたくもない絵を描かされることへの苦手意識が芽生えるのは当然だろう。本来自由な表現であるアートは、うまい/へた、という評価とは本来かけ離れたところにあるはずなのに。(と、ついついネガティブになってしまうが、アーティストになった僕にとって学校の美術の時間は、至福の時だった。作り方が決まっているキット教材も、毎回の楽しみだったし、自分が設定したわけでもないモチーフや課題も、積極的に取り組んでいたことを思い出す。)教育学部に通い、学校の(特に美術や図画工作の)先生になろうとする学生と一緒に、ワークショップを使ったアートプロジェクトをつくる時間の中で、将来この学生たちと出会う子どもたちのことを想像する。みんながみんなアートが好きになる必要があるとは思わないが、せめて嫌いにならずにいて欲しいと切に願う。自分の街に美術館があれば、たまの休日に美術館で気分転換をする、美術や美術館がそんな選択肢の一つになるためには、子どもの頃の体験をつくる必要がある。我々アーティストや美術館が、どれだけPRのために学校や住宅街に出向いてワークショップを行っても、子どもたちを多くの時間を過ごすのは我々ではなく、その保護者と通っている学校の先生なのだ。

 既存の学校のカリキュラムの中では、生徒たちの声を全て拾うことは難しいだろう。(ワークショップでもそれは難しい。)子どもたちの声を聞くことは、子どもたちの主体性や興味・関心に目を向けることである。細かいところまでプログラムを設計しない、と書いたが、想定外を想定した緩やかな設計は、参加者の主体性を取り入れ、多様な協働を生み出す余地を設計しておくことである。協働は対話を生み出し、教育の言葉で言えば、それは学びにつながっていく。緩やかな設計の元で参加者の声やアイデアを尊重し、最初にあったコンセプトさえも流動的に形を変え、目的が複数になったりしながら、重層的に進んで行くアートプロジェクトを体験していることの影響は、小さくはないと期待している。

ツーリストであること

 今回のプロジェクトでは、LDKツーリストという住宅空間を旅行するためのツアー会社風なプロジェクトを企画した。南橘団地に5歳まで住んでいた僕にとっては思い出の場所でもあるが、「表現の森」がなければ改めて訪れることもなかったかもしれない。美術館来場者が、表現の森の現場を訪れることを目的に立ち上げたツアー型のワークショップでは、美術館来場者が南橘団地を訪れる機会を作り出した。このコンセプトはまた詳しく述べたいと思っているが、南橘団地をリサーチしていて感じた表現の森の企画への違和感や、他者の視線、見えない境界線を体験してもらうプログラムであった。

 ツーリストは、自分が帰るべきホームを持ち、見知らぬ土地を訪れる存在である。ホームに留まらず、見知らぬ土地を訪れることは、自分の日常とは違う異質なものに出会う機会である。学校のテストには正解があるが、学校の外には多様な考え方があり、答えが一つとは限らない。今日の大学生のライフスタイルを見ていると、旅はおろか、遊ぶ時間もなさそうに見える。国際情勢の変化の中で、バックパックで自分探しの旅というのはむずかしくなっているかもしれない。見知らぬ土地を訪れることだけが旅というわけでもないだろう。異質な場、異質な人との出会い、自分のホームではないコミュニティーを訪れ続けるツーリストであり続けることが、重要な時代なのではないだろうか。

(執筆・編集・投稿=中島佑太、写真=木暮伸也)

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