【展覧会:レビュー】正直“モヤモヤ”した〜途中を見せるということ(文=郷泰典/東京都現代美術館 教育普及担当学芸員)


※本稿は、展覧会「表現の森 協働としてのアート」(2016/7/22-9/25)のレビューです。

正直“モヤモヤ”した〜途中を見せるということ

文=郷泰典[ごう・やすのり/東京都現代美術館 教育普及担当学芸員]

ワークショップの成果展の場合

この展覧会を見始めるや否や正直なんともいえない“モヤモヤ”とした心持ちになり、一刻も早くこの場を立ち去りたい気分に見舞われた。そして、見終わった後には、どうしようもなく落ち込んでいた。さらには、展覧会に当てられたとでもいおうか2、3日ほど寝込んでしまった。果たしてこれは展覧会なのか? なんともいえないこの“モヤモヤ”はしばらく続いた。

筆者は日頃、美術館の教育普及担当学芸員として、作品と鑑賞者とをつなぐ仕事に従事している。学芸員の職に就く以前は、フリーランスで作品と鑑賞者をつないだり、日常の見方を変えるためのワークショップを企画し、特定の場所を持たずにいわば外部との関わりを中心に各地の美術館、学校、商店街、病院などに出向いて仕事をしていた。つまり、今回の展覧会で紹介されているプロジェクトを行ったアーティストの役割に近い立ち位置で活動をしてきた。そのため、この展覧会の内容は、過去の自分や現在の自分が関わっている仕事とも重なる部分が多く、それゆえにこの展覧会のありようを深く考えざるを得ない自分がいたのだった。

アーツ前橋には主軸となる3つの活動がある。それは、(1)美術館の“ギャラリー内”での「企画展事業」、(2)美術館内でのワークショップなどを通じて“活動への理解”を促す「教育普及事業」、(3)美術館の“アウトリーチプログラム”となる地域アートプロジェクト」である(*1)。今回の「表現の森」は、3つ目の柱である「地域アートプロジェクト」と深く関わっているが、それらを企画展として見せ、教育普及事業などもからめた総合的な活動と捉えることが出来る。展示構成は前橋市の様々な施設で取り組んだ(いずれも今後も継続していくという)5つのプロジェクトと、他地域での3つの先行事例の紹介である。特に前者の5つのプロジェクトの内、南橘団地、デイサービスえいめい、のぞみの家の3つはワークショップの要領で展開されている。

ここでワークショップということについて少しふれておく。巷で行われているワークショップを見渡すと、単なるもの作り活動のことをそう呼んでいるものが多くある。ワークショップは本来ある目的解決(解決されないかもしれないが)のために使う「手法」のひとつである。つまり「やり方」だ。ワークショップの特徴は次の3つである。(1)ストーリーがあること〜流れがある。(2)双方向の関わりがあること〜教えるものと教えられるものといった一方向の関係性ではなく互いに関わりを持って事がなされて行く。(3)プロセスの重視〜結果ではなくその過程が重要視される。

ワークショップは、プロセスを重視しているとはいえ、結果として何か成果(物)のようなものが立ち上がってくる。それを成果展として見せる場合もあるが、その場に参加した一人ひとりの経験プロセスまでを展示することは困難である。よって、成果(物)の部分だけ、例えば、制作物のようなものを見せられてもあまりピンとこないものが多い。筆者も過去にワークショップの成果展(または記録展)の類いを開催したことがある。しかし、こうした展示は実施したワークショップの本編とは全く別物である。なぜなら、展示される時点で、そこには何らかの編集作業や選別が必ず介入してくる。成果物以外に、現場の状況や反応を伝えるためにドキュメント写真や記録映像などをプロセス紹介の一環で掲示するのだが、どうしても見栄えの良い雰囲気を伝える場面を選びがちで、結果、楽しくてうまくいったという印象を与えてしまう。失敗やうまくいかなかった様子、現場の混乱した状況、スタッフ間や参加者同士のいざこざなどはカットされがちであるし、正直あまり見せたくないものだ。

 

記録展示でもなく、作品展示でもなく

今回の「表現の森」は、こうしたワークショップの記録展示に似ている。では、何を見せる展覧会だったのか? この展覧会では、会期中にプロジェクト当事者を交えた関連シンポジムが開催された(残念ながら筆者は不参加)。当日配布されたレジュメに目を通してみると、そこにはプロジェクトの活動の「お披露目」のための展覧会であり、第三者にプロジェクトのプロセスを公開することがこの展覧会の主旨であると述べられている。さらには、うまくいくことばかりではないことにも目を見向け、検証していくプロセスなのだと。つまり、良いも悪いも含めプロジェクトの「途中を見てもらう」展覧会であり、鑑賞者と共にプロジェクトに関して検証するということらしい。シンポジウムもこの検証のひとつといえる(しかし、それ意外の検証方法については詳細がないので不明であるが)。単なる記録展とは異なり、まさに途中の「まま」で見せる、まだ結果の出ていない(この先も出ないかもしれないが)、ある意味混沌とした展覧会なのだ。ゆえに、冒頭で述べたように目の前の状況を理解するまでに時間がかかり、突然荒波の中に放り出された居心地の悪さを感じ困惑させられたのだった。展覧会=作品展示と思って見に来ると完全に足下をすくわれる、なんとも危険な展覧会ともいえる。

途中を見せるという意味では、現代美術を扱った展覧会では、展示室内で作品の制作過程そのものを公開し、作者が作品を作っている様子を鑑賞者に見せることがある。しかし、本展の場合、会場で実際のプロジェクトの一端が実施されているわけではなく、アウトリーチ先の施設との関わりを示す「作品」ともつかない「モノ」たちが展示されており、どれが「作品」なのか? そもそも、この状況における「作品」とは何なのか? と悩んでしまい、筆者の居心地の悪さ“モヤモヤ”をさらに助長していた。今回の展示主旨として「途中」であるというニュアンスを示すもう少し丁寧な説明が必要だったのではないだろうか。いずれにしても、今後も各々のプロジェクトは継続されるということなので、その都度また途中を見せる「表現の森」第2弾、第3弾が開催されていくはずである。途中、途中をつなぎ合わせることで、このプロジェクトの意義や成果、また展覧会形式として発表したことの意味が見えてくるのだろう。

アーツ前橋が今回のプロジェクトでやりたいことは、少なくともアートを通じて「団地の高齢化を止める」「お年寄り達を元気する」「母子たちを癒す」「難民を救う」「引き込もりから開放する」というわけではなさそうだ。本展担当の学芸員・今井朋氏によると、本企画は先の「3つの柱が有機的につながり、そのことによって私たちの活動がアウトリーチとインリーチを繰り返しながら地域に美術館の存在意義を浸透させることを意識した。」という(*2)。果たして初回となる今回はどのような存在意義があったのだろうか? それはお披露目展覧会を通じて、こうした施設が前橋市内に「ある」という事実を、アーツ前橋が展覧会という形を通じて知らせてくれたことなのではないだろうか。美術館が外に出て行くことで、地域の様々なものをつないで行く触媒になることは、美術館の存在意義を伝えるのみならず、美術館が地域の拠り所としての役割を担うことにもつながって行くのかもしれない。とりあえず、モヤモヤしながら次回を待ってみたい。

 

[注釈]
*1: 今井朋「アーツ前橋の取り組み「表現の森 協働としてのアート」前橋市内で行ったプロジェクトを中心に」『REAR38号』リア制作室、2016年、71頁。
*2: 同上

 

(投稿=佐藤恵美)

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