【展覧会:レビュー】表現の森の先には(文=長津結一郎/九州大学大学院芸術工学研究院助教)


※本稿は、展覧会「表現の森 協働としてのアート」(2016/7/22-9/25)のレビューです。

表現の森の先には

文=長津結一郎[ながつ・ゆういちろう/九州大学大学院芸術工学研究院助教]

 

これって、美術館?

公立美術館でピンポンをやっているのを横目にマンガを読みふけったことは、あとにもさきにもこの展覧会が初めてだったように思う。ギャラリートークやワークショップなどは馴染みがあるが、毎日決まった時間に、そこに誰かがいようといまいと、ただ黙々と文章を読み、終われば去っていくという人を見かけるのも珍しい。これって、美術館?

川口幸也は「ミュージアムでは、展示という行為が本来持っている暴力と狂気を、科学とアートの名においてカモフラージュしているともいえるし、逆の見方をすれば、ミュージアムとは、そうした暴力と狂気をうまい具合に飼い馴らして、展示の持つ長所を活かすことに成功した仕掛けである、ということもできる」(川口幸也『展示の政治学』水声社、2009年)と言う。展示という行為や、美術館というもの自体も、これまでは権力と不可分の存在と考えられてきた。美術館は、誰かが価値のあるものであると認めたものについて、収集・保存・展示を通じて、一般大衆に向けてその意義を広めるものである。と同時に美術館は、川口の言うように、展示のもつある種の狂気性を「うまい具合に飼い馴らす」ことで、作品を大衆に対して翻訳する役割を果たしているとも考えられてきた。

また大衆の側から見ると美術館は、実社会では立ち止まって考えることの少ないことを考えたり、立ち止まったり、驚くような体験をしたりすることで、わたしたちを実社会から少し切り離す機能を持っているとも言える。ただし、人は、自分のまなざしでしかものごとをみることができない。視覚障害のある人とともに美術作品を鑑賞するワークショップに近年注目が集まっているが、その醍醐味を私は、「みえる」はずであると思っている人にとって、実は「みえていない」ことの方が多いと気づかされる点にあると考えている。その「みえていない」ことに気づかないままわたしたちは、自分のいいように展示を消費していることも多い。

 

現実社会への、美術館のささやかな抵抗

さて、「表現の森」である。詳細はこのウェブサイトにもいろいろ載っているし、多くのレポートも掲載されているので、すでに多くを述べることもないだろうが、私はとにかくこの展覧会で、のんびりとした時間を過ごした。「滝沢達史×アリスの広場」による空間では、不登校の人たちのためのフリースペースに通う人々が選ぶオススメのマンガがあったり、引きこもっていた時の部屋を再現した空間があったり、いつもはフリースペースにある卓球台があったり、した。「Port B×あかつきの村」による展示会場では、ベトナム難民などの人たちを受け入れる施設で過ごす人をとらえた長い映像作品が流れるのをずっと眺めていた。すると、突然女性がやってきて、何かの文章の朗読をはじめる。この施設でのスタッフの実習記録を読んでいることがわかる。彼女は毎日日課として、同じ時間にここに文章を読みに来ているという。

このようなことを目の当たりにして、わたしたちのまなざしは混乱する。そもそも「みる」対象となっているものは何なのか。わたしたちは「作品」を「鑑賞」しにきたのではないのか。途中から私は作品やコラボレーションの意図を追うのをやめて、じっくりとこの広々とした空間を楽しむことにした。実際の福祉現場に行くと、ひとりでじっくり考え込むことより先に、どんどん身の回りの出来事が目まぐるしく動いていく。そこから遠く離れた気分で、映像やインスタレーション、パフォーマンスなど、ただただそこに起こる出来事に対し、考え、接近し、時には遠くから眺め、立ち止まる。そして、自分だったらこの場所にどうやって関わるだろうか、と思いをめぐらせることになる。

展示されているどのプロジェクトも現在進行形であり、完成には至っていないか、完成というものが存在せずに進んでいるものばかりである。その結果「展示という行為が本来持っている暴力と狂気」は希薄化される。代わりに、そこで現れる現実の出来事に対し、「わたし」はどのように対峙できるのかを突きつけられる。実社会の過剰さに立ち止まって、あらたな入り口を見つけ出す空間、といってもいいかもしれない。ひとつひとつのプロジェクトが”森”のように全体をなし、美術館の出口が、新たな価値観への入り口となる。

この展覧会は、福祉分野との関わりが求められつつある近年の美術館をめぐる情勢に対する、地域とともにある美術館であるアーツ前橋らしい回答である。障害のある人による表現を安易に扱ったりはしない。マイノリティの人たちの日々の生活を単なる素材として、アーティストがひとりで作品をつくりあげるような安直なコラボレーションも起こっていない。実際にそのような表面的な協働が2020年に向けて散見される現在の日本において、アーツ前橋の取り組みは、対象となる施設やそこにいる人々との対話をもとに丁寧に何かをつくりあげようとしているように映る。もしかしたらそれは、虚構性と権力性におびやかされ、いまや暴力と狂気にあふれてしまっている現実の社会に対して、美術館がささやかに対抗するための、新たな戦略なのかもしれない。

 

 

 

(投稿=佐藤恵美)

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