前編:表現の生態系関連イベント「アートを通して考える『マイノリティ』と『市民運動』」


※展覧会「表現の生態系」(2019/10/12-2020/1/13)の関連イベント・「表現の森」の連携シンポジウム(2019/12/1)の前編です。
>>後編はこちら

マイノリティという概念やマイノリティに対する排除や差別、それらが生まれる社会構造について、「表現の生態系」展企画委員で、社会学を専門とする山田創平氏が解説した後、LGBTをはじめとするセクシュアルマイノリティの支援団体として群馬を拠点に活動し本展に参加したハレルワの間々田久渚氏、群馬県内で弁護士としてマイノリティの支援を行う吉野晶氏、ハレルワと協働し大阪の児童自立支援施設に勤務するあかたちかこ氏が、これまでの活動について紹介を行った。その後、アートをはじめとした「表現」がもちうる力や可能性、「アーティスト」と「マイノリティの支援に携わる人たち」の共通点について議論した。

◎日時=2019年12月1日(日)14:00〜16:00

◎スピーカー=あかたちかこ(大阪市立阿武山学園/児童自立支援施設講師)、間々田久渚(ハレルワ代表)、山田創平(京都精華大学准教授)、吉野晶(弁護士)、今井朋(アーツ前橋学芸員)

趣旨説明と登壇者紹介

今井:本日はお集まりいただきありがとうございます。「表現の生態系」展担当学芸員の今井と申します。本日のテーマは「アートを通して考えるマイノリティと市民運動」で、これから4名のゲストと2時間ほどトークをしていきます。

今回のテーマ設定については、後ほど山田創平さんからお話していただきます。

「表現の生態系」展は、アーツ前橋が2016年から行っている「表現の森」という活動を、様々な分野の視点から見直してみようと企画しました。社会課題や生きづらさに対して表現活動がどんな役割をもちうるのか、アーティストや施設のスタッフと一緒にこれまで取り組んできました。現在も活動していて、今後も継続していく予定です。なぜ美術館がこうした活動をし続けるのか、外部から様々な方をゲストとしてお招きし考える機会として今回設けました。

本日のゲストの方4名を始めに私の方からご紹介します。

京都精華大学の山田創平さんは、本展の参加作家と企画委員のお一人としてご参加いただきました。本展は、1年半をかけて企画委員の先生方とアーツ前橋でコンセプトを作り、準備してきました。展覧会鑑賞のヒントとして会場でセルフガイドを配布していますが、その中にあるキーワードマップ・概念図も一緒に作りました。

ハレルワの代表・間々田久渚さんです。ハレルワさんとは、今回の展覧会を通じて初めてプロジェクトをご一緒しました。「表現の森」は、アーティストと市内のNPOなど団体の方たちと協働しているプロジェクトですが、今回新たに、ハレルワさんとあかたちかこさんと一緒にセクシュアルマイノリティについて考えながらプロジェクトを展開してきました。

吉野晶さんは、前橋市内を拠点に、弁護士として様々なマイノリティの立場にある方の支援をする活動されています。今回のトークで初めてご一緒させていただきますので、県内での活動についても伺えればと思います。また、実は山田さんと高崎高校の同級生でもあるそうです。

あかたちかこさんは、ハレルワと一緒に今回プロジェクトを行い、本展の準備段階で群馬にたくさん足を運んでいただきました。ハレルワは、今アーツ前橋からも近いオリオン通りで拠点づくりをしているので、あかたさんにはその話し合いと本展で展示しているプラカードづくりのワークショップのファシリテーターを担当されました。

先週、ブブ・ド・ラ・マドレーヌさんと滝沢達史さんのトークがあり、今日の参加者の中にはおそらくそちらにも参加してくださった方もいるかもしれません。その中で、社会におけるマイノリティの人たち―このマイノリティという言葉を使うのも難しいところがありますが―その社会における構図を理解するための図が示されました。それは山田さんからお借りしたスライドでした。まずは簡単にその点について山田さんからレクチャーを頂き、そこからトークを進めていきます。

 

資本主義という経済システム

山田創平氏

山田:ご紹介いただいた山田です。これから私が話す内容は、2018年に出版した『セックスワーク・スタディーズ』(編:SWASH、発行:日本評論社、2018年)に書いた内容をまとめたものです。先週、ブブさんと滝沢さんもごくごく簡単にお話されていたと思います。

「マイノリティ」ってよく言いますよね。最近のアートの文脈では、「社会的包摂」という言い方をしたりもします。地域型のアートプロジェクトをする時も、「社会的包摂型のアートプロジェクト」と言うこともあります。また、「包摂」の反対は「排除」ですので、差別や社会的排除、マイノリティということも合わせてよく言われます。しかし、その概念は曖昧で、考えれば考えるほどよくわかりません。それぞれの人の中に、多数派の部分やマイノリティである部分もあるので、「すべての人がマジョリティでもあり、マイノリティでもある」という言い方もできます。そこで、まずはその概念を整理して、今日はそれを1つの切り口としてお話をしていきます。

今日は、「周縁化」という言葉を使います。周縁化される人々−例えば女性差別、セクシュアルマイノリティ差別、障害をもった人に対する差別など、色々な差別や社会的排除があります。私の専門である社会学の理論では、現代社会のこうした差別の根底には「近代」という時代があると言われています。近代というのはここ200年くらいのことで、今の私たちが生きているこの時代も近代です。近代は、「資本主義」と「国民国家」という2つの要素で特徴づけられると言われています。なお、本日は国民国家については取り扱いません。

社会学を大成したマックス・ウェーバー(Max Weber, 1864-1920)による資本制分析以来、資本主義というお金の回り方が差別の源になっているということがよく語られるようになりました。詳しく話すと複雑で難しいので、今日は大枠のお話をします。近代以前の近世や中世にも、確かに差別は存在していました。しかし、時代によって差別が発生する理由は違い、近代には近代特有の差別の成立の要因や原因があります。

ここで、2つのテキストを紹介します。

1つ目は、泉弘志『剰余価値率の実証研究』(法律文化社、1992年)という書物です。ここにはこのように書かれています。

「経済統計資料を加工して現実の剰余価値率を推計しようという試みは、マルクスが『資本論』の中で当時のイギリス資本主義に関する例示的な計算例を示して以来、世界各国の経済学者によって試みられ、すでに多数の貴重な成果があがっている。」(p.23)

ここでは、「剰余価値率」という言葉だけご記憶をいただきたいと思います。

2つ目は、上野千鶴子『家父長制と資本制』(岩波書店、1990年)です。上野さんの出世作とも考えられている書物ですが、このように書かれています。

「ラディカル・フェミニストは「市場」の外部に、「家族」という社会領域を発見した。(中略)ヒトが、「市場」にとって労働力資源としか見なされないところでは、「市場」にとって意味のあるヒトとは、健康で一人前の成人男子のことだけとなる。成人男子が産業軍事型社会の「現役兵」だとしたら、社会の他のメンバー、たとえば子供はその「予備軍」だし、「老人」は「退役兵」、病人や障害者は「廃兵」である。そして女は、これら「ヒトでないヒト」たちを世話する補佐役、二流市民として、彼らと共に「市場」の外、「家族」という領域に置き去りにされる。」(p. 7-8)

非常に強い言葉で現代の資本主義を批判し、その中から女性や障がい者などに対する差別の発生を指摘する文章です。大枠の話にはなりますが、この2つのテキストを基盤に置きながら、図式的にここに書かれている内容を説明できればと思います。

まず、「資本主義」という経済のシステムは、人が工場や会社に集まって働くことによって発生します。それ以前は、それぞれの家や小さな工房、家内制手工業で生産が行われていました。動力源として蒸気機関と電気が発明され、大規模な生産システムが作られるようになり、工場や会社に人が集まって働くということが起こります。元々お金を持っている資本家と呼ばれる人が、お金を出して工場を作り、そこに人々が集まって働くようになる。現代で当たり前になっている会社員というシステムは、近代に入ってから始まったことです。

私も勤務先の大学から月給をもらっていますし、もしコンビニで働く時給を1000円とした場合、示された時給や月給に対して、何故この金額なのかあまり説明を求めないですよね。私たちは給与を支給される際には、その金額に納得するしかない。例えば、ここでは給与が1日1万円で、疑いなくもらっていると仮定しましょう。ここで「剰余価値率」が出てきます。例えば、パンを作ってそのパンが売れて会社に売り上げが入り、パンを作るための小麦やガス、電気代などの必要経費を抜いて、純粋に上がった利益が手元に残ります。働いている1人当たりの給与は1日1万円ですが、本当にこの工場で上がっている純粋な利益を働いている人数で割ると1人5万円になる。この場合、マルクス経済主義経済学では、利益は剰余価値率500%の状態といいます。
考え方によっては、これだけ儲かっているのであれば、働いている人にもっとお給料を払えばいいのではないかという話になります。剰余価値率研究は経済学の中でも一大研究分野なので、様々な人が研究しています。泉さんは、戦後の日本の剰余価値率は400〜500%としていますが、他の研究者だと200%や150%、人によっては1000%という人もいて、その数値は一定しません。試みにWikipediaで「剰余価値率」について調べてみると、剰余価値率のことを搾取率とも、日本では500%くらいとも書かれています。

そして、労働者に支払われた1万円の残りである4万円は、この工場を作った人、資本家が手に入れることになります。資本家はこのお金を貯めることで資本蓄積をして、自分の給料としても受け取り、設備投資と事業拡張に使います。たくさんのお金が入ってきて自分も高いお給料をもらえて、かつそのお金を使って工場を大きくしていく。工場が大きくなり、働く人が増え、更なる資本蓄積が進む。このサイクルに基づいた経済成長が重要だという考え方を「資本主義」と言います。マルクスは、このシステムを基本的には批判し、工場や会社で働いている人が利益を全員で均等に分け合えば、みんなが豊かになると素朴に考えました。この経済システムを「共産主義」と呼びます。

私は今日どちらがいいかという話をするつもりは全くありません。マルクスは労働者が1人5万円もらえるはずなのに1万円しかもらえず、資本家がお金を持っていくことは搾取であると言いました。これが第一の搾取です。上野さんはこれ以外にも、家庭を通じた搾取があると指摘しました。この点に注目したいです。近代の工場で働いている人のジェンダーは、男性が多い。なぜ男性が工場労働者に多いのかは諸説ありますが、歴史的な事実です。この男性の労働者は、夜になると家へ帰ります。特に戦後の日本社会が典型的ですが、家には妻がいます。家へ帰って、妻が作ったご飯を食べ、風呂入り、寝るだけということが可能になります。朝も、起きて、妻が作った朝食を食べて会社に行きます。そして、それが幸せな家庭の形として語られます。

工場を経営している人たちは、働いている人たちに長時間働いて欲しいわけですよね。長時間労働を可能にするために「家」というシステムを作って、妻が家事労働を全部してくれます。労働者である男性は朝から晩まで工場で働くことが出来て、その結果大きな売上が上がって、資本家のもとにお金がたくさん入るとするならば、妻の貢献は大きいものになっています。妻には給料が支払われないので、妻の無賃労働によって夫の長時間労働が支えられていることになります。だとすると、家が存在し、妻が存在することで、最終的に得をしているのは資本家です。資本家は妻に給料を支払うべきではないか、家族手当がそれに当たるという議論もありますが、あまりにも金額が少ないですよね。そう考えると、妻の家事労働は無賃労働です。マルクス主義フェミニズムではこの無賃労働を重視しています。なぜ無賃労働が可能になるかと言うと、近代の家族のシステムを人々は当たり前だと思っているからです。更に、このシステムが愛、家族愛によって支えられているという近代特有の思想もあります。夫に妻がご飯を作るのは愛情なので、お給料が出るかどうかは考えない。そういう空気が社会の中で出来上がっています。

提供:山田創平氏

やがて、この家庭には子どもが生まれます。その多くは、ジェンダー男性と女性との間に生まれる子どもですが、この子どもは新しい労働力としてまた工場に入っていきます。経済成長によって工場や会社は大きくなると更なる労働力が必要なので、労働力をどんどん補充していく役割を家庭が担います。このシステムが資本主義としてぐるぐる回っていく中で、子どもが生まれてきて新しい労働力になるのは必要なプロセスです。だから、少子化が問題だと言われるわけです。
考えみると、地球上の長い歴史の中で人口というのは、古代から中世、近世に至るまで、せいぜい数百万人、数千万人から数億人くらいだったのが、この200年くらいの間にいきなり数十億というものすごい増え方をしています。抗生物質の発明や衛生状況が良くなったからなど様々な理由がありますが、これだけ地球上の人口が増えている中で、政治家がこぞって少子化を問題にするのは、労働力不足を危惧しているからにほかなりません。

 

資本主義に潜む問題と、差別や排除が起こる構造

山田:これまで話してきたように、異性愛の家族がいて、妻が愛情をもって家庭が運営されるということは近代200年の間に生じたこの時代に特有な考え方ですが、それが当たり前だとメディアを通じて人々は思わされています。例えば、「サザエさん」や「ちびまる子ちゃん」といったテレビアニメを見て、そこに登場する家族がいわゆる普通の家庭で、その中で家族は愛情をもって生活し、子どもをもつ妻と夫がいる。これが当たり前なんだ、それが幸せの形なんだとテレビを見て思うようになる。考えてみると、サザエさんは東芝がずっとスポンサーでした(1969〜2018年)。つまり、資本家や企業は、メディアを使ってこのシステムが当たり前であると社会に広めているのです。これはメディアの問題とも言えますが。先ほども言ったように、私はこれがいいとも悪いとも言いたくない、どちらもいいところがあるし悪いところがあります。しかしながら、こういうシステムがあるということは大枠で事実であると言えるのではないでしょうか。善悪の議論はおくとして、しかし、ここにはいくつの問題が潜んでいます。

1つは男性中心主義で、先ほど上野さんが言ったように女性は無賃労働を強いられていて、女性の地位はあらかじめ低いものとして設定されています。2つ目は異性愛中心主義で、異性愛の2人が結婚して子どもが生まれ、その子どもを異性愛のカップルが責任をもって育てるというシステム。3つ目は健常者中心主義で、そもそも働ける、家庭をもつことが出来るという前提があります。4つ目は、婚姻中心主義で、結婚している人たちが社会の中心にあるという考え方も出てきます。つまり、資本主義は本来お金のめぐり方のシステムの話なのに、同性愛や同性同士の結婚というのは近代の仕組みでは全く想定されておらず、異性間で結婚して子どもを生むのが正しいとされるので、同性愛差別や障がい者差別や単身者差別などを構造的かつ原理的に内包しています。これは、普段気づかないけれども、資本主義社会の中では形として最初から組み込まれていると言えるわけです。

提供:山田創平氏

それを形として示すとこの図になります。異性愛で結婚している正社員男性が社会の中心にいて、安定した生活が出来る。この人たちが基本的には様々な権力をもっている。その周りに失業した人、専業主婦、子どものいない夫婦だとか、あるいは異性愛の単身の男性であるとか、外国籍の人、難病や障害を持った人、非嫡出子、シングルマザー、セクシュアルマイノリティ、HIV陽性の人、セックスワーカー、フリーター、薬物依存、路上生活の人―様々な人たちが存在しています。それらの人々は、社会の中心にいて資本主義のシステムを回す「異性愛男性」の周りに配置にされていて、外側に行くほど差別が強くなる。ただこれは暫定的に配置しているので、時代によってこの周縁にいる人たちの位置は変わります。この構造をもとに様々な社会問題を分析していくと、多くのことがわかってきます。

今後様々な社会問題を扱った本を読む時に、今日私がお話した構造を念頭に読むと、納得がいくことがあるのではないかと想像します。例えば、以前私が行なった講演で、『性教育裁判 七生養護学校事件が残したもの』(著:児玉勇二、発行:岩波書店、2009年)という本を取り扱いました。「七生養護学校事件」とは、都立七生養護学校でかなり踏み込んだ性教育をした先生たちに対して、東京都議会の議員がまるでポルノのようだと介入し、教員が失職した事件です(2003年)。
なぜ国家が性道徳や性規範に介入するのかというと、特に戦後の日本社会などでは多くの場合、政権与党の政治家は資本家の代理人ですから、資本主義社会を回すには家族、しかも異性愛家族が大事だとわかっているわけです。だから、それに反するような性規範や道徳を排除しようとします。同じように本田由紀さんと伊藤公雄さんが『国家がなぜ家族に干渉するのか』(編著:本田由紀・伊藤公雄、発行:青弓社、2017年)という本の中で、なぜ日本では同性婚が認められていないのか、子どもが生まれる家庭が良いと考えられているのか、家族の中でお互い助け合うことが良いとされているのか、なぜ国家がそれにいちいち指図しようとするのかということに対して、私が今説明しようとしたことと同様のことを指摘しています。

繰り返しになりますが、社会的排除や差別というのは、ある日突然偶発的な理由ではなく、構造的に起こるものです。そして今の時代を作り上げている深い理由が、資本主義にあります。
「表現の生態系」展はいわゆる現代美術の試みの1つですが、現代美術は私たちが当たり前だと信じていて縛られている規範や価値観を斜めから見たり、外から中心に入っていって内側から壊したりする試みだと私は考えています。ですので、この構造があるということ、これを様々な方法を用いて壊していく、自ら壊れるような仕掛けを作ってみたいというのは、たぶん現代美術という実践の中核的な思想だろうなと思います。なので、今回の展覧会を見ていくと、これはどういう実践なのか、どういう方向を向いて何をやろうとした実践なのかと想像していただくと、見えてくるものがあるのではないでしょうか。

本日は、こうした社会構造がある中で、それぞれの立場から周縁にいる人たちを支援している、権利を守ろうとしている人たちをゲストとしてお呼びしました。この後、それぞれの活動を紹介していただいた上で、この構造を念頭に置きながら、表現がもっている可能性について更に話を進めていきます。

それでは、ハレルワの活動の紹介を間々田さんお願いします。

 

セクシュアルマイノリティを支援するハレルワの活動

間々田久渚氏

間々田:改めましてハレルワの間々田といいます。錚々たるゲストのみなさんの中で最年少で、ここに座っているのが恐縮ですが、まずはハレルワの活動を紹介させていただきます。

ハレルワは群馬県内で、LGBTやセクシュアルマイノリティの当事者が生きやすい社会を作りたいと考え、2015年6月に発足しました。私たちの主な活動として当事者の居場所づくりとして交流会を毎月開催し、SNSやメールなどを使った悩み相談を行うほか、啓発活動として行政や企業に呼んでいただいて講演や研修を行ったり、地域のイベントにも出るということもしています。

居場所づくりの交流会ハレノワは、毎月第4日曜日に高崎や前橋で開催しています。LGBTの当事者が安心して自分のセクシュアリティをオープンにしながら相談や活動ができる場所として開催しています。年齢性別不問、参加費無料の交流会ということで、当事者でなくても参加できる会となっています。当事者の親御さんや学校の先生などLGBTに関心をもって当事者に寄り添いたい方も多く参加していただいています。今まで500人以上が参加していて、年齢層も当事者の中学生から70代まで、様々な世代やセクシュアルティの方が参加しています。

企業連携では、県内の店舗でチャリティやPRイベントにも参加しています。これまで、イオンモール高崎にあるバスボムなどのお風呂グッズやコスメを販売しているLUSHでチャリティイベントを開かせていただいたり、ドン・キホーテ高崎店で群馬県のマスコットキャラクターぐんまちゃんとPRしたりしました。どちらも全国的な企業なので、今後はぜひ県内企業でもやりたいと考えています。

ハレルワの主催イベントで「ぐんまにじいろ成人式」を昨年の8月に開催しました。なぜ成人式とLGBTが関連しているのかと言うと、LGBTの人の中には成人式は地元の人と顔合わせる場ですが、いじめを受けていて辛かったり、セクシュアリティのことで色々あったりとか、自分の望んだ服装で成人に出られなかったということもあったりします。
僕自身もトランスジェンダーで、生まれは女性で地元の成人式に行けませんでした。2012年から、東京を中心に全国の団体がLGBT成人式を開くようになっていき、群馬も昨年開きました。今年もアーツ前橋隣の元気21のホールで、1月26日に予定しているので、関心のある方は来ていただけると嬉しいです。

 

「表現の生態系」展へ向けたプロジェクト

間々田:県外では、「東京レインボープライド」へ参加しました。「東京レインボープライド」は、日本で一番大きなLGBTのイベントで、毎年ゴールデンウィークに代々木公園で開催され、パレードとして街を凱旋します。今回、表現の生態系に絡んで、横断幕やプラカードをこのスタジオを会場にして作り、東京で掲げて歩いてきました。その時、山田さんやあかたさんとワークショップし、イベント当日はあかたさんもレインボープライドに一緒に参加しました。

レインボープライドの様子(提供:ハレルワ)

 

あかた:この横断幕、やっぱりかっこよかったなと、しみじみ思い出しました。群馬から東京ってまあまあ遠いよね。

 

間々田:電車で2〜3時間近くかけて行きましたね。今回もワークショップの様子や高崎の駅から渋谷まで行く様子を映像で展示していただいているので、見ていただけたらなと思います。

それから、「まちの保健室プロジェクト」を今年度スタートさせました。アーツ前橋から歩いてすぐの商店街にあるオリオン通りの店舗をフリースペースとして改装している最中です。LGBTの支援をしている「ハレルワ」と、アーティストの滝沢達史さんとコラボしている、ひきこもりや不登校の経験のある人たちを支援している「アリスの広場」と一緒に進めています。この2つの団体を引き合わせてくれたのはアーツ前橋の今井さんです。
対象や問題は各団体で違いますが、共通している部分も多いです。ハレルワの交流会に来てくれる若者たちの中に不登校の子もいますし、アリスに利用している子の中にもLGBTの子もいて、出会ってみて本当に良かったなと思います。
この場所は6月に借りてまだ作っている最中で、12月下旬にクラウドファンディングのページをオープンする予定です(→クラウドファンディングページはこちら)。自分たちの手でDIYしながらこの場所を今作っているのですが、どうしても業者が入ってもらう必要のある部分を資金調達したいので、ぜひご協力をお願いします。ハレルワの活動紹介は以上です。

改装中の「まちのほけんしつ」(提供:ハレルワ)

 

ハレルワが発足したきっかけ

あかた:ハレルワさんって色々やってますよね、忙しいですか? 活動はいつから始めたのでしたっけ。

間々田:忙しいですね、ありがたいことです。2015年から交流会はしています。

あかた:今の「忙しいですね」という言い方が忙しさを物語っていますね。なぜハレルワをやろうと思ったんですか?

間々田:僕は2代目の代表なのですが、前代表と初期のメンバーが、群馬はLGBTに対して結構差別的で厳しいなと感じて、交流会を開き出したんです。

あかた:先代が2015年ということですが、群馬は差別的な場所だとどんな時に思われたのでしょうか。

間々田:前代表は県外から群馬へ来た人だったので、オープンに出来る場所がないと感じたのかもしれません。当時、Twitterで検索をして、当事者同時者が繋がっていって、交流会をしていました。当時はネットでしか繋がりが作れなかったのもあると思います。

あかた:2015年か…。今、話を聞いていたら、めっちゃ昔の話っぽいなと思って。昔はネットしか繋がりがなくて、その前はもっと雑誌しか繋がりがなくて、文通欄とかだったと思うんですけど。LGBTというか、LとGぐらい?BとTは無かったような時代。私は、ハレルワさんって最近のぴっちぴちの団体だと思っていたので、そんな昔みたいな理由でできたのか。そうか、そっか。何か、意外。

間々田:意外ですか。

あかた:未だに。私がFacebookとかで、「群馬にはハレルワさんが居てて、めっちゃ凄腕集団やで」とか書いたりとかしたら、群馬出身の人が一斉に食いついてきて、「そんなんあるんや」ってみんな言ってて。「そんな意外か、お前ら」みたいな。私は関西の人間だから、群馬のイメージが全くよくわからず、地図で東京のちょっと上にあるんだから、超・雑に東京だろうと思っていた。違った。

間々田:僕も最初はハレルワの交流会の一参加者だったんですよ。ハレルワの交流会があると知るまでは、東京であるLGBTのイベントへ行くことでしか当事者と直接会う手段がなかったんです。あとは、ネットの中やそのオフ会とか…そういう感じでした。

あかた:3時間かけて東京に行っていた、と。

間々田:そうですね。

あかた:若いのに…なるほど。何か反省しました。何を反省したかと言うと、すっかり状況は変わったつもりでいたことです。何の自負かわからないけど、ごめんなさい。ありがとうございました。

 

 

弁護士としてDV被害女性、外国人などマイノリティと関わること

山田:それでは、続いて吉野さんのお話に移ります。吉野さんがここにいる理由をお話しすると、今回この企画でトークをしようとした時に、アーツ前橋の周辺で社会的に弱い立場の人や差別されている人の支援したり権利を守るような活動をしている人がいないか、特に市民セクターでいないかネットで調べている中で、吉野さんが出てきて。あれ、名前を見たことがあると思って更に調べてみて、確かに私の高校時代に同じブラスバンドに所属していた吉野君だったんです。あ、今こういうことしてるんだな、と知りました。同級生だから呼んだわけではなく、調べたらたまたま吉野さんにたどり着きました。それでは、吉野さん活動の紹介をお願いします。

吉野晶氏

吉野:弁護士の吉野です。今紹介していただきましたが、山田さんとは本当に先ほど20何年ぶりに顔合わせをしました。なぜ自分が検索で出てくるのか、自分で検索したことがないのでわからないんですけれども。法律家や弁護士は最近ちょっと数が増えて、テレビに出ている人もいるので、少しはみなさんも身近に感じているかもしれません。

私がなぜこうした活動をしてきたのか、またその根っこになっているのは何かと言うと、法律家の勉強をしてきたからというのが回答です。みなさんはあまり目にしたことがないかもしれませんが、法律家は憲法を始めに勉強します。その中には、最初の方に「平等」という規定があり、例えば性別や出身で区別した扱いをしてはいけないと書かれています。わざわざ書いてあるからには、きっとそういう問題があるんだろうなと考えるのが、法律家が勉強する過程の本来の出発点です。

私が弁護士になった2001年、社会的にどうしても少数の立場に立たされている人たちと初めて関わったのは、DV(ドメスティックバイオレンス)被害を受けている女性のみなさんを、法律家として援助する活動でした。当時、DVの女性というと、「変な夫を捕まえた自己責任だろう」とか「男は妻に多少暴力をふるって当然だ」みたいなことを平然と言われ、あまり社会から認められていませんでした。既に21世紀に入っていましたが、それが普通の一般的な認識に近かったんです。
その中で、少しずつ当事者が活動するようになってきて、本来は守られるべきものが守られていないということが知られてきました。そこで、何か動き出す時に助けが必要なので、法律家として役に立とうと思いました。最初は、DVの女性の方がどうやって逃げるか、逃げた先でどうするかなど、相談員や当事者の法律相談を受けたのが始まりでした。

他には、外国人と私はあまり言わないんですけど−外国籍の方とも関わりました。群馬は、フィリピンとブラジルやペルーなど南米の出身が多かったのですが、社会的に当時はあまり認知されていませんでした。男性でフィリピンの人はほとんどいないのですが、女性は繁華街の飲み屋などで虐げられた仕事をしていました。南米出身の人たちも、社会的には認知されていないんですが、日本の基幹的な産業である自動車の下請けの下請けの下請けのところで、朝から晩まで単純労働をしている人たちが多かったです。外国籍の方の支援は、例えば、「実はビザが無いんです」とか「在留期限が切れたが、国に帰っても借金だらけなので日本で何とか稼がなきゃいけない。助けてください」とか、そういうものでした。市民としては真面目に仕事をしていて、自分の稼ぎで食い扶持を賄っている善良な人ですが、国というレッテルから見ると入管法という法律を守っていない、在留資格やビザがないというそれだけの理由で犯罪者に当たるので困っていました。なので、滞在資格を取って合法的に日本にいたい人を法律家として支援していました。当初はそうした事例が多かったです。社会的に見たらマジョリティではなく周縁の方に居るけれども、「日頃どこかで見たことありますか」とみなさんへ聞いたら、「もしかしたらいたかもしれない」と思い当たるような人たちです。そうした手を差し伸べるのが難しい人たちへ向けて、法律家としてできることをやってきました。

先ほどの山田さんの話に出てきたものでいくと、権力をもっている人は法律をうまく使おうとしています。法律が誰のためにあるのかということを考えていくと、そもそも大きい立場や権力者が自由にするために作ったルールではないはずです。本来は、憲法で規定されている平等のためですよね。平等というのは、世の中に差があるのは当然だけど、社会のルールとしてみんな同じ土台にのって生活しようということです。どの法律も平等は基盤としてあり、それを実践するためのはずです。本来受けられるものを受けられるようにしていく法律の使い方として、私は社会的に弱い立場にある人たちへ法律の情報を提供する立場で仕事をしてきました。

そういう仕事は、需要はたくさんあります。しかし、弁護士についてみなさんがどう思っているかはわかりませんが、その辺の八百屋の亭主と一緒で仕事をしながら自分でお金を稼ぎ生業を立てていかないといけない立場で、要するに自営業者です。そして、社会的に弱い立場にある人たちは、経済的に豊かというとそうではありません。経済力が豊かでない立場の人たちのことを重々知りながら、彼らからお金をもらわないといけないので、なかなか難しいところもあります。現在、前橋テルサにある「法テラス」の副所長を務めています。業務の1つとして、民事法律扶助というものがあります。経済力が豊かでない人が弁護士を雇おうとしている際に、その方の弁護士費用を一旦立替え、利息つけず月に数千円ずつ期間内に返していただくという制度で、それらを有効に使う活動をしてきました。

 

犯罪を犯した人の社会復帰を支援する群馬県内の活動

吉野:最近は、マイノリティといえば究極のマイノリティかもしれませんが、犯罪に手を染めてしまった人たちを対象とした活動もしています。弁護士会、司法書士会、社会福祉士会、精神保健福祉士会という4つの会と申し合わせをして「ぐんま・つなごうネット」というボランティア団体を作り、私はその事務局をしています。一言で中身を説明するのは難しいのですが、刑務所へ入った後また社会へ戻る人、警察に捕まって勾留されたが裁判を受けずに釈放された人、正式な裁判を受けたが執行猶予がついて社会に戻ってきた人、少年を含むそういう人たちを支援していこうという団体です。
その中でも特に高齢の人や障害を抱えている人など、本来は福祉の手が差し伸べられていればこんな事件を起こさずに済んだのではないか、弁護士をしているとたくさんそうした事件に遭遇します。刑事事件で言うと、国選弁護人(自分で弁護士を雇う経済力がなくても国が弁護士をつける制度)として巡り合う人たちです。凶悪犯罪は一握りで、大半は窃盗とか交通事故といった事件です。例えば、万引という言葉はあまり響かないので嫌なんですが、窃盗という事件を見ていると、お金を持っていても盗る人もいます。お金が無くて、捕まるのをわかっていて盗る人たちもいる。そういう人たちと話をしていると、生活の困窮がある場合もありますし、障害の中でも精神遅滞や知的障害があり、盗みはだめだよと言われてその時はわかっていると答えても、実際には全然わかってない人と巡り合うこともたくさんありました。今まで弁護士として仕事をする中で、そうした人たちと裁判以外で関わることはありませんでしたが、それだけではだめだと思ったのがきっかけで、同じことを考えている仲間たちと取り組みを始めました。

群馬県は、昨年「再犯防止推進五カ年計画」を出しました。一度犯罪に関わってしまったが、もう二度と関わらないようにするための、施策や取り組みをまとめました。私は、普段は社会的に弱い立場の人の味方をしているので前橋市や群馬県を訴えたことも多いのですが、私を会長という立場で中に入れてくれて計画を立てました。少しでも弱い立場にある人が、元の社会に戻ることに手を差し伸べられたらいいなと思っています。

今日は美術館でのトークですが、まず「表現の自由」が私たち法律家の中にはあります。芸術家と法律家は遠そうなんですが、よく考えてみたら、憲法の最初の方で表現の自由について習いました。表現の自由は多様なことを含んでいて、何でもやっていいわけではなく責任を伴います。しかし、枠や箍(たが)をはめるとか、何かをしなければならない、こういう時にはこうしなければならない、とかそういうことではありません。表現というのは自由で、それは色んな人が表現してくれて構わないし、それに対して賛成する人もいれば反対する人もいます。それで意見を戦わせて、みんながそうだねと言えるようにしようとする、民主主義の一番大本で大事なところだと思います。その大事な中に、社会的に見たら少数の側かもしれないが、そこへ発信しようという取り組みはすごく興味深く感じましたし、今日みなさんの前でお話できてとてもありがたいなと思っています。

 

 

児童自立支援施設の機能と役割

山田:吉野さんありがとうございました。次は、あかたさんお願いします。あかたさんは作家として「表現の生態系」展に参加していて、1階のスペースにハレルワと協働した展示をしていますが、普段の活動も含めてお話ししていただければと思います。

あかたちかこ氏

あかた:紹介していただきました、あかたと申します。よろしくお願いします。私は、今の所ハレルワさんと一緒にワークショップをやった人、LGBTのことをやっている人みたいな感じで存在することが多いのですが。私は、普段というか時々にはなりますが、児童自立支援施設で働いています。今日のトークは、その立場で呼ばれている気がするので、その話をします。

ちなみに「児童自立支援施設」(以下、児童自立)という名前を聞いたことがある人は手を上げてください。

(10人ほど手が挙がる)

…え?どういうお客さん?大学やイベントでも、その立場で話すことは結構多くて、その度に聞きますが、大体300人くらいの人へ聞いたら、そのうち1人か2人が普通なので、今ちょっとうろたえました。もし、釈迦に説法になったらごめんなさい。でも、たぶん知らない人もいっぱいいると思うので、話します。

私自身は、児童自立で性教育をしている人です。性教育とその周辺のなんでも屋さんという人で、大学でも教えています。保健所のエイズ検査の横でカウンセリングをする立場と、思春期保健相談士という資格を持っています。普段名乗っているのは、恋愛力向上委員会委員長というものもあります。…いかがわしい?私も好きなんですけどこの言い方、恋愛相談屋さんです。……何だ、この人は?っていう(笑)。今回、更にここでアーツ前橋に出展とかしちゃったので、アーティストも加わってますますカオスなあかたでございます。

先ほど、吉野さんとそれぞれの児童自立との関わりの思い出話をしていたら、だんだん怒りがこみ上げてきて、スライドはこんなタイトルになっています。

「誰のおかげでマイノリティ?『児童自立支援施設』周縁で考える少数派と多数派のこと、『悪いことをした人は悪い人か?』」

…という、今日の怒りのボルテージを表したタイトルです。

今日の話は、児童自立という支援を必要としている人があちこちにいる場所で働いている対人援助者と、マイノリティとしての女性を観察してあれこれ考えている立場として話すことになると思います。

それで、児童自立支援施設についてですが、意外と自分の働いている場所の概要ってよく知らなかったりすることも多いじゃないですが。それで、Wikipediaを調べたらうまいこと書いてあるなと思いました。

「犯罪などの不良行為をしたり、するおそれがある児童や、家庭環境等から生活指導を要する児童を入所または通所させ、必要な指導を行って自立を支援する児童福祉施設。全国に58箇所存在する。根拠法は児童福祉法44条。多くは、児童相談所からの措置入所。家庭裁判所の審判で保護処分として入所することもある。」(wikipediaより引用、抜粋)

今働いている施設の名前は、大阪市立阿武山学園です。学園と言っていますが、みなさんの学園というイメージとは全然違って、100%不本意入学です。要は、行きたくて来ている子は一人もいないという施設です。怒られるかもしれませんが「少年院ジュニア」と私はざっくり紹介することもあります。措置入所や保護処分として入所というのは、非行をして家にいても仕方がないから誰かに送り込まれてきたということです。まあ、刑務所とか少年院とかって行きたいですっていう人はあまりいないですけどね。

私が働いている所は、大阪市立なのに大阪市にはないのがポイントで、大阪市内は都会すぎて作れなかったんです。広大な敷地(山)の中に、小さい寮が8つ(女子寮2、男子寮5、観察寮1)と、学校と畑とグラウンドがあります。いわゆる「自然豊かな環境」で、畑とかやらせたがるんですね、我々は。それもどうかと最近思うんですけれども。午前中はその中にある学校で勉強します。午後からは畑仕事や部活です。寮には最大12人程度の入所児童と、その多くは夫婦がしている寮長と保母先生がいます。児童自立で働こうと思ったら、基本夫婦住み込みになるので、今の時代では色々問題が出てきていて難しいところもあります。更に、その夫婦の実の子どもと、非行少年のお兄ちゃんとお姉ちゃんたちとが一緒に暮らします。あと、犬など動物を飼っていることも多いです。動物と一緒に子どもを育てたらいいのではないかという考えがあるからなのですが、その犬がこの前、子どもに噛みついて大問題になったりして、トラブル多めの所でもあります。その夫婦と、それ以外のスタッフの大人2人で回しています。もっと幅は広く扱う所もありますが、入所児童の年齢は小5〜中3までです。入所期間の平均は2年程度ですが、平均なので、小5から中3までずっとうちで暮らす子もいますし、家へ帰れないという子もいます。中3の夏ぐらいに来て、この時期に入れてもなぁ…と、あまり居られず卒業する子もいるので、様々です。大体は中学校卒業と同時に退所、卒業します。

キーワードは「育て直し」なので、夫婦が寮長と保母先生をします。これもモヤモヤしますが。お父さんぽい人とお母さんぽい人と、もう1回育て直そうということです。うまくいっているかと言うと、全然うまくいっていない今日この頃です。
次のキーワードは「生活の立て直し」です。今日この美術館に来るような人たちっていうのは、私ら児童自立の人間からしたら全員エリートです。ですから、みなさんが想像もつかないような生活をしてきた子どもたちです。机をどうやって拭いたらいいか、雑巾の絞り方といった普通のことを全然知りません。
最初の頃にびっくりしたのは、施設ではご飯が3食出るんですけれど、白いご飯を見て固まっている子がいました。私が「飯食えよ」って言ったら、「何すか、これ?ご、ご飯…?」と戸惑っていました。「どうしたん?」て聞いたら、「白いご飯なんか食べたことないっす」って言われて。それで、普段何を食べてきたのか聞いたら、家に親がいたことがないから親の作ったご飯を食べたことがなく、いつも冷凍庫に入っているピラフなどを食べていたとのことでした。豪華じゃんって一瞬思ったんですけど、そういうことじゃないですよね。白いご飯をどうやって食べていいかわからないし、なにせ勉強なんてみんな壊滅的です。みなさんがこうして座って話を聞いているのも、私から見たら奇跡的なことです。座って話を聞くというのは、みなさんどこかで訓練を受けてきているわけですよね。動物にはできないことなので、そもそもそれが人に必要に能力なのか?という気も時々しますが、児童自立の子どもたちは座って話を聞くということが基本的には出来ません。

児童自立についてニュースなどで聞いたことがある人にとって、2つ有名な事件があります。近所の子どもの首を切って校門に置いた事件を起こし、酒鬼薔薇聖斗を名乗った少年が入所したのも児童自立です(神戸連続児童殺傷事件、1997年)。また、佐世保で同級生の女の子を殺した女の子がいましたが(佐世保小6女児同級生殺害事件、2004年)、あの子も児童自立に入所しました。ただ、そういう子たちばかりを扱っているかというと、ちょっと違います。重大犯罪の子は、東京の国立の児童自立に行きます。

 

変化する入所児童の傾向

あかた:私たちのところは市立なので、窃盗や暴力、金品持ち出し、夜間徘徊など「虞犯(ぐはん)」といって、罪を犯す恐れがあるのでそのまま放ってはおけない子が多いです。最近は、性犯罪も増えています。

私が働き出した7年くらい前は、まだヤンキーが多かったですね。だから、「表現の生態系」で展示されている尾花賢一さんと石倉敏明さんの作品に描かれているようなヤンキーが結構いて。私もヤンキーたちと仕事で接するのは結構好きだったのですが、最近は絶滅危惧種になっています。スライドにはこう書きました。

児童の方向性にも、職員の方向性にも変化が。昭和テイストの「不良」が減り、性加害児童と軽度の知的障害や発達障害の診断が増加傾向。「生きる力のある子が減っている」とベテランたちは言う。

ヤンキーって、確かに社会的には困った存在ではあるのですが、生きる力はあります。私たちと大分違うだけで、彼らのルールはあるので、暴走族を組織出来てもいました。最近はそういう子は減り、悪いことをした自覚をいつまで経ってももつことが出来ません。昔は「俺は、悪いことは何でもやるっす」みたいな感じの子が多かったのですが、最近は「何が悪いのか、わからないっす」と言う子が多くて、今までのやり方が通用しなくなってきました。今までのやり方というのは「こっちの方が正しいし、あなたはこれで生きていくことが出来るんだ」とバーンと上から示し、彼らのルールを変えてやれば、そのルールにみんな何となくのって行けました。
最近はそうではなく、より「支援寄り」の方が良いのではないかという話になっています。しかし、この場合の「支援」とは何かとなった時に、児童自立の中をどのように変えていくのがいいのか探っている状態です。例えば、カウンセラーの数を増やせばいいのか、先生が怒鳴ることを減らせばいいのか、性被害についてなどプログラムをたくさん導入するのか、もっと「傾聴」を頑張ればいいのか−どれも今の所うまくいっているとは言い難い状況です。
「崩壊する寮」という言い方を私たちはしますが、寮には寮長と保母がいて、中学3、2、1年生がいます。昔は、寮長が怒鳴ったら中3がバチっと言うことを聞き、そこから中2と中1の言うことを聞かせて、それを保母がケアするというやり方でした。これが通用してきたというのも、すごいことではありますが。最近は、子どもみんなが一斉に無断で外出しちゃうとか、そういう事態になってきています。

 

支援する立場の人間が意識するべきこと

あかた:学園なので校歌があり、私も自分の学園の校歌がすごく好きです。その中に「強きよりも、賢きよりも、まことなる、人とならんと」という歌詞があります。毎年、卒業式の時に泣きながら歌ったり聞いたりするので、まるでいい言葉として自分の中では聞こえます。「強い」や「賢い」を目指すのではなく、「ちゃんとした人になろうや」というのを、みんなで唱えながら生活します。そう言いながら、私たち児童自立の中の人間は、やっぱり男児には「タフであれ」という教育をずっとしてきました。

DVのことも、子どもたちへ教えます。男児も女児も暴力にさらされて生きてきているので、女の子たちがDV男を「素敵な彼なの」と言って連れてくることもあります。男児たちは、女の子を殴る人に育つ可能性が結構高いように私たちから見えるので、「殴るのはいい男じゃない」とか「女を殴るのは男じゃない」といったことを教えるわけです…やっぱりこの言い方なんですね。「平等」とか「対等」とか言っても、基本的にはあまり伝わらないので、「真に男らしい男は、女を殴らない」とか言うんですよ。そんなこと普段は全然思っていませんが、それが一番伝わるからです。最短距離を目指さないと、誰もみなさんのようにちゃんと話を聞いてくれないので、とにかく印象的なフレーズで伝わるものを探します。「タフであれ」、「男の子たちは我慢しろ」、「黙って手を動かせ」、「俺の背中を見ろ」と、寮長たちは男児に教えます。なぜなら、それがまだ最短距離に思えるからです。

では、その中で「生きる力」とは何なのか?児童自立支援施設と言っていますが、それで自立支援できるのか?という話です。児童自立で多数派である男児に対して、少数派の女児の扱いは後回しになるなど、児童自立の中でもそうした事が起こっています。児童自立でも私1人だけ「ジェンダー」という言葉を使っています。私は大学でもジェンダー論を教えているので、児童自立の中に暮らしている周りのスタッフからは「また、あかた先生が難しいこと言うてはる」と言われています。

でも、そんな中で格差を噛み締めながら、若いスタッフが入ってきた際に、呪文のように耳元で呟く言葉があります。私たちが子どもたちを扱う時に、いつも心の中で呟くべき言葉です。

まず1つ目は「背景を想像しよう」。児童自立に来た子たちは、確かに悪いことをしました。被害者も出ています。子どもには「被害者が出ているのは、マジダメっす」という言い方をしますが、加害者をケアする側の人間は、彼らの背景を想像するべきです。加害の背景には、必ず被害があります。どうして人を害することを覚えているのかというと、昔自分がされていたからですよね。

2つ目は「現状は、結果である」。子どもたちが何か余計なことを覚えているのだとしたら、それは特性ではなく、まずほとんどが結果であるということ。先ほども言ったように、加害者は元被害者ですから。

3つ目は、「人はみな、人生を背負って行動を決める」。余計なことや悪いことをした人も、これまでに様々な事を考えて、それしかないと思ってその手段を選びました。人を殺した人もそうだと思います。その瞬間は、それしかなかったんです。

そして、児童自立に来た経歴なんてクソで、何の利益もないんですよ。バレたら絶対「刑務所に入っていた人」という目で見られ、なかなか就職出来ないこともあります。でもだからこそ、4つ目として「せっかくこんな所まで来たんだから、何か良いことでもないとね!」と、何かおみやげを渡して社会へ返せないかということを、私たちはいつも考えています。あれがダメ、これがダメということを覚えさせるだけではなく、人生にプラスになることを教えて送り出したいというのが、児童自立です。

でも、私も1年の半分程度しか児童自立に勤務していませんし、絶対に児童自立で寝ないようにしています。一緒に飯を食わない、寝ない−つまり共に生活しないということです。なぜなら、共に生活をすると、あの雰囲気に飲まれるからです。日頃から問題を起こされると困るわけですから、問題を起こさないで欲しいというのが主題になってしまいます。だから、なるべくちょっと離れたところにいつもいようと思っています。私が話したことは、毎日24時間365日、児童自立にいる人からしたらぬるい言説だと思います。でも、これを言う。理想は必要だと思うからです。

 

山田:ありがとうございました。この後、順番に更に話を聞いていきます。

 

>>後編へ続く

 

(構成・投稿=小田久美子)

 

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