岡安賢一|南橘団地×中島佑太を撮る・考える


中島佑太の現場は、めちゃくちゃスリリングである

2016年にアーツ前橋の「表現の森」の活動が始まった時、映像制作者である僕は学芸員の今井さんから連絡を受け「石坂亥士・山賀ざくろ×清水の会 えいめい」の現場に入った。その映像は2016年の表現の森展および現在開催されている表現の生態系展で展示されているし、このサイトでもそこでの体験について書かせていただいたことがある。

表現の森展ではじめて「中島佑太×南橘団地」の展示を見た時、その時はまだ無関係だったのだが、正直に言うと一見した僕の理解力では、良くわからなかった。1人の若いアーティストが子どもたちとなんだか楽しそうなことをしている。でも南橘団地?・・その他のアーティストたちは、高齢者の介護施設やひきこもりや不登校の経験のある若者たちのフリースペース、母子生活支援施設や旧・難民定住センターという、ある意味特徴のある場所へ行っているのに対して団地って・・そもそも団地にどんな問題あるの?と。

その程度の理解ではあったが、2018年の2月より「中島佑太×南橘団地」についても映像記録で入るようになった。そして予想外に、撮影で入れば入るごと、編集で詰めれば詰めるごとに「中島佑太×南橘団地」の奥深さを知ることになる。映像制作者には色々な得意不得意があり、僕はずっとドキュメンタリー寄りな仕事をしてきたのだけれど、今では「対子どものドキュメンタリー的視点において、彼の現場ほどスリリングなものはない」とまで思っている。

 

撮影初日、ワークショップまで時間があったので、1人ビデオカメラを持って団地を歩いてみた。すれ違う人もほとんどいない閑散とした路地、小さな公園。イメージカットとして団地にカメラを向ける時には「ものすごく悪いことをしている気持ち」になった。それは僕特有の体験ではなくて、誰が住んでいるかも知らず家と野外の境界が曖昧な団地だからこその体験だったように思う。「何か撮影してる男がいます、不審者です」と言われても不思議ではないというか。そしてそういったこちらからの一方的な(あるいは双方向的な)不信感、あいまいな境界こそが、ここで活動が行われる1つのキーポイントだということも、後になって知るようになる。

中島佑太によるワークショップは、一見すると展示の印象そのままの「子どもたちとなんだか楽しそうなことをしている」であった。けれど僕なりの彼のワークショップの解釈としては、彼はまず「禁止・ダメ」を言わない。手付かずのきれいで大きなロール紙にざくざく適当にはさみを入れていってもOKだし、何かを作ろうと団地に材料集めに行き、廃タイヤを転がしてきても怒ることはない(使用後はきちんと元に戻しました)。よく見られる光景としては、子どもたちはガムテープや紐で中島佑太をぐるぐる巻きにする。一見して「いじめ」を連想するが、彼は怒らないと同時に物怖じもしないので、ぐるぐる巻きになったまま子どもたちと馴染んでいる。

その結果起こることは何か。子どもたちは自発的に、考えられること、やってみたいことを、のびのびとやり始めるのだ。そしてここが面白いと思うのだけど、誰かが作ったものに大きくあるいは小さく影響され、真似たり、それに対応するものを新たに作ったりする。中には、自作のゲームや劇を始めたりする子どももいる。それらを映像に収めるために必要なことは、とにかく目と耳を総動員して今何が起きているかを察しカメラを向ける以外にない。そのほとんどが予測不能で、だからこそ僕にとってこの撮影はとてもスリリングなのだ。

編集の際には、撮影時には気づかなかった子どもたちの呟きや行動に気づくこともある。学校内での子ども同士の力関係はワークショップにおいても引き継がれたり、けれどそこから自由になって一人で好きにやる子もいるし。パッと見活動的で目立つ子どもが主役になるのではなく、誰も注目していなくても、その子ならではという表現を見つけると、感動すらしてしまう(例えば、水たまりにアルミホイルをしいてその上を油性ペンでなぞり、当然ながら色は水に溶けあとには残らず、でもその様子に興味をもってそれを繰り返す子どもがいた)。そして撮影していてわかることのもう一つ。中島佑太は子どもたちに対して、自ら指示を出すのではなく、僕以上に子どもたちが発する声に耳を傾け、彼らの様子を見ているということ。

この活動の1つとして、中島佑太は2017年より南橘団地の子どもたちが通う桃川小学校に入り、美術の補助教員として授業に参加している(その様子も度々撮影している)。子ども1人1人の自由が拡張していくワークショップとは対局にあるような画一的なカリキュラム色が強い学校の授業は、一見すると比較対象になってしまうが、アーティストとしての能力を見せるのではなく、関係性を深める、という意味においても貴重な活動であるようだ。現在では、教室の中でも外でも「ナカジ!ナカジ!」と中島佑太の周りには子どもが絶えない。性格的にめっちゃ良い人でもないのにね・・(悪い人でもないけど)。

今年2月のワークショップにて、南橘団地への材料集めに、中島佑太が子どもたちと行こうとしていたのでついて行った。相変わらず閑散とした団地の路地に「ナカジ!ナカジ!」と子どもたちの声が響き、中島佑太を囲んで歩いていく。その様子を撮影していて僕は、最初ここに来た時に感じたような嫌な気持ちを感じることはなかった。もちろん、団地に住む方たちのテリトリー内?であるので謙虚にいくべきという気持ちは変わらないが、何か言われたら「いやー、そこの公民館でけっこう前から子どもたちとものを作ったりしてまして」とも言えるし、何より対団地住民であろうが対政治家であろうが偏見なく接する「機嫌のいい子どもたち」がいる限り、団地の住人に限らないほとんどの大人たちはつられて機嫌が良くなるんじゃないかとも思うのだ(そう思いたい、という部分もあるが)。

それは、子どもを盾にするということでもない。それをあえて言葉にするなら、大げさかもしれないが「子どもたちを自由にすることにより、団地がもつ境界を緩和させる行為」であるのかもしれない。それが今現在どれほど作用しているか、今後どうなっていくかは未知な部分も多いが、中島佑太が南橘団地周辺で行ってきたことは、それを映像で記録してきたことは、とても意味があることだと思っている。

岡安賢一(映像記録)

20191213


(テキスト=岡安賢一、写真=岡安賢一他、編集=中島佑太)

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