【関連シンポジウム:記録】パネルディスカッション


※展覧会「表現の森 協働としてのアート」(2016/7/22-9/25)の関連企画として開催したシンポジウム(2016/8/27, 28)の内容をお届けします。
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2回のトークセッションと、石原孝二氏によるレクチャーを終え、この日の最後回となるディスカッション。モデレータを館長の住友が務め、これまでのトークセッションに登壇した3名をスピーカーに迎えて議論を進めた。一番初めのトークセッションにて石原氏が提示した「ケアの現場でアートは役に立つのか」「活動を継続・持続するにはどうすればいいのか」という大きな2つの問いについて議論を深めるところからスタートした。

◎日時=2016年8月27日(土)17:00-18:00

◎スピーカー=
林容子(一般社団法人 アーツアライブ 代表理事)
猪股剛(臨床心理士)
石原孝二(東京大学大学院総合文化研究科准教授)

◎モデレータ=
住友文彦(アーツ前橋館長)

 

アートの有用性、プロジェクトの持続性とは

住友:1日目の最終セッションになります。先ほどの石原先生のレクチャーなど、今日は初めて聞く話も多くあり、いまは頭がほとんど飽和状態です(笑)。私は芸術というフィールドで仕事してはいますが、「表現の森」というプロジェクトを始めるにあたり、福祉や教育などこれまでいろいろな分野の人たちと話をしてきました。その際に、やはり自分たちの専門性という檻のなかに持っている、思い込みや既成概念みたいなものを揺さぶられるときが多々あったような気がします。違う分野の人と向き合うときには、そうした自分たちがこれまで大事に持ってきたものをもう一度考えてみたいという気持ちになります。すでに今日のトークセッションのなかで、そうしたやり取りもありました。そこから一歩踏み込むような話をこのパネルディスカッションでできればいいなと思っています。

今日来ていただいたお客さんからもすでにいくつか質問を頂いていますが、これについては後半で取り上げます。まずは林さんと猪股さんに伺いたいと思います。石原先生が最初のトークセッションで二つの問い掛けをされました。一つは「アートは役に立つのか」です。これについては、かなりいろいろなやり取りも出ました。それからもう一つは、「プロジェクトの持続性・継続性」です。今回の「表現の森」についても、プロジェクトを展覧会のため、あるいは期間を決めて終えるのではなく、継続的にやっていくこと。とりあえずそれだけ決めておこうと、担当の今井と話をして事業がスタートしました。それは表現にどこでピリオドを打つのかという問題、つまりどこで切り上げるのか、どこで完成なのか、どこで作品と呼ばれるのかといった問題とも関わると思います。またプロジェクトがどのように伝わっていくのか、も同時に考えていく必要があります。

トークセッション1では、林容子先生がアートの専門外の人たちに認められるためには、アートの世界で大事だと思われていること、われわれが普段信じているものとは違う説明が必要とおっしゃっていました。この問題とも関わる石原先生の二つの投げかけが、当事者研究やオープンダイアローグとも関係してくる点かと思いました。二つのトークセッションと先ほどのレクチャーから、まずは林さんからコメントや質問を頂ければと思います。

:今日のディスカッションは、本当に私は頷くことが多く、共感するばかりです。まずアートの有益性についてですが、たとえばプラグマティズム(実用主義)に中心軸をおいた社会のなかでは、いってみればアートというものは最も無用なものかもしれません。しかしアートのコミュニティにいる人たちにとっては、アートは絶対的なもので、その価値を疑うなんてことはあり得ないことです。ところが一歩アートのコミュニティを出ると、そこは全く違った価値観で動いている世界があります。

私の仕事は、特に1999年からはアートと全く関係なく生きている高齢者や障がい者の方々に、いかにアートを伝えていくか、アートの素晴らしさを体験してもらうか、アートの価値をいかせるか、を模索してきました。例えば高齢者のアートについて、ある自治体に「これはとても楽しいんですよ」「こんなに喜ばれているんですよ」といって継続的にやってもらおうと思ったら、残念ながらほとんど「楽しい」とか「喜ばれる」といった言葉は役に立ちません。最初に聞かれるのは「これをやったら認知症が予防できるんですか」「認知症の症状が緩和されるんですか」「どういう効果があるんですか」です。この三つの質問をずっと受けてきました。それでも以前はこのプログラムをやったら認知症が緩和できるとか、脳がどうなるとか、私もそんなに関心がありませんでした。ただそういう人たちにもアートを届けたい、ということでやってきたのです。

ところが自治体や施設を説得するには、仮にでも「うつがよくなる」とか「記憶力が少し改善する」とか「社会性が高まる」とか、彼らが見ている価値観にマッチしなければ会話が途切れてしまう。それで、証明しなければ先に進まないと思いまして、治験やリハビリ医療の臨床実験をしている愛知県の国立長寿医療研究センターに協力してもらい、そういう視点での効果を検証する実験も行いました。でも、実はこれには危険な点があり、「これをするとうつがよくなります」「これをすると短期記憶力もこのように改善します」といった面から入っていくと、それは治療の延長になってしまうのです。本来ならば、薬やリハビリにはできないところにアートの価値がある。そこを失わないで、かつ彼らの価値観のベクトルにも合うものにしたい。このバランス感覚が非常に難しい。今日、私は久々にこういった非常にアーティスティックな人たちと深いディスカッションができる場に来て、また思い出したというか、ちょっと自分は自治体や施設側のベクトルに寄ってきているのでは、とそんな気もしました。

それからもう一つ、持続性についてです。これは最初のアートの有益性、または社会におけるアートの価値にまさにつながります。例えば助成金をもらって一過性のものとしてやることは結構できます。私もいくつも助成金をもらって1年きりのプロジェクトをやってきました。でも、そうすると助成金の終わりが必ずプロジェクトの終わりなのです。私たちにとっては終わりでいいかもしれないけれども、彼らにとってはやっぱり継続することが重要かと思います。そうしますと、コーヒーを1杯飲むのに数百円払ってもらうのと同じように、プログラムに1回参加するのに1000円や2000円をいただく、といったことをしていかない限りは続きません。私たちの団体ではいくつかの場所で継続的なプロジェクトを行っていますが、それらはすべて個人、あるいは施設、または自治体に資金をいただいて活動しています。必ず経済性を持つプロジェクトだけが持続していく。そこのところがとても重要だと思います。

 

それから最後に、石原先生の当事者研究のレクチャーを伺い、本当にずっと頷いておりました。この4年間、認知症を患っている高齢者の方に美術館に来ていただいて、作品を見せて、それについての対話を楽しむというプログラムを日本でやってきて、試行錯誤の連続でした。でも、ようやく最近「あ、こうすることが大事なんだ」というのが分かってきたことがありました。それがまさに、さきほど石原先生がおっしゃった「無知の姿勢」です。

人が自分の気持ちを表現できるのはどういうときだろうと考えると、その表現する相手を信頼するときなのです。「この人に何をいっても大丈夫なんだ」「この人は私のいうことを聞いてくれるんだ」と、その安心感があってこそ相手に話すことができる。これは認知症や障がい者があるから、とかそういうことは一切関係なく、人間は皆そういうものでしょう。いかにこの人間同士の信頼感を築くかが実はとても大事で、例えば私が行っている対話型鑑賞プログラムでも「私がアートの専門家で、みなさんよりアートについてずいぶん知っています。だから、どうぞなんでも聞いてください」という態度でいると、参加者は私の言葉を聞こうとします。こちらの言葉を聞いてちょうだい、とはならないんです。ではどうやってこれを変えるのかというと、まさに「無知の姿勢」です。「分からない」「知らない」という態度を見せるのです。私は知らないから、あなたたちのことを聞きたい、と。その聞き方も「質問の深掘り」と私はいっていますが、彼らが何か一つ関心をもってくれる。例えば、髙山陽介さんの作品[1]でおがくずに関心をもたれた方がいました。あの作品のなかでおがくずは非常に小さなエレメントですが、そこから会話を始めたわけです。「おがくずはどこから来たんだろう。そこに木の彫刻があるから、それを彫ったときに出たものなのか。いや、そうじゃない」といった会話を、参加者が関心を持ったところからどんどん広めていく。それで会話を持続していきます。

また、石原先生のレクチャーに12のキーエレメンツのお話がありましたが、実は私も全て当てはまると思いました。ひょっとして私がやっていることはセラピーなのかな、と。この不確実性は、対等な立場や信頼感、そして認知症という言葉を一切使わず、病気や治療を極力思い出させないように配慮しています。

私たちは、実は参加者が認知症かそうでないかも分からずにやっていることが多いのです。あとから「あの方はよくしゃべっていたので認知症ではないですよね」ときくと、「いえ、彼女はトイレに行ったらお一人では戻ってこられないのですよ」といわれて驚くことがよくあります。認知症の方も目の前のものに集中できるのです。だから、「今この瞬間を重視する」というエレメンツもありましたが、それも共通していると思いました。認知症は脳の老化ですから、それが精神障害ではないのですが、やはりすごく共通項がある。もしかして、これは人間としてのコミュニケーションの普遍的な原則なのではないか。別に障がい者だからということではなく、私たちも心の中を人にさらけ出すのは、こういう条件が実は必要なんじゃないかなと思いました。

住友:それではあとでコメントさせていただきますので、先に猪俣さんにコメントをいただきましょうか。

猪俣:何をお話したら良いかを、先ほどの石原先生による当事者研究についてのレクチャーの直後から考えていますが、難しいなと本当に思っていまして。というのも、僕はアーティストではないですが、Port Bに関わっているという意味では、アートに関わってはいます。と同時に精神分析や臨床心理士をしていてセラピストでもあります。今日も、午前中に5人のクライアントさんにお会いしてきました。アートにも福祉にも何らかの形で携わっていますが、どれにも携わっているから何もいえなくなる、という感じが実はすごく強いのです。さて、どうしよう。

アートが役に立つのかについて、僕の立場からコメントできることが見つからず、継続という意味では、私自身は継続するしかない仕事だと思っています。例えば、今お会いしているクライアントさんで、10年以上お会いしている人も何人かいますし、東日本大震災の後から福島に行き始めて5年と少しが経ちますが、福島の中学生とその保護者さんの話を継続して聞く仕事もしています。ただ、それをある種のまとまった言説にできるかというと、非常にしにくいなあ、と思っています。

当事者研究のお話については、例えば「べてるの家」のある浦河町だからこそ実現できている活動だと思い、その土地に興味があります。北海道は約140年前に開拓され、人口が急激に増えました。さまざまな地域から人びとが北海道という土地に入り、そのなかでたどり着いた浦河町という辺境の地にある「べてるの家」は、やはり東京にはつくれない場ではないでしょうか。「あかつきの村」に関わり始めたときも、秋田に住む人類学者の石倉敏明(いしくら・としあき)さんに連続フォーラム[2]でゲストに来ていただき、前橋というまちや赤城山についてなどその土地の持つ固有性との関連をお話しいただきました(2016年7月23日)。なぜその土地や風土のなかで成立しているのかに、僕は興味を惹かれます。

先ほどのレクチャーで石原先生もおっしゃっていましたが、今までのさまざまな実践がここ10年くらいの間に「オープンダイアローグ」という形でリプレゼンテーションされたのだと思います。オープンダイアローグは、おそらくロジャーズ(臨床心理学/1902-1987)やフロイト(精神分析学・精神医学/1856-1939)が長らく取り組んできた、専門家のなかでは共通知のようなものとして実践されてきたものを社会のなかにオープンにした。社会化したことが新しいのではないか、と思います。あるいは社会学化したといえるかもしれません。それがどこまで社会で通用するかを実践し始めているのだろうと思います。そこには同時に危険さも孕んでいるでしょう。例えば、石倉先生のレクチャーでも認知行動療法やSSTという話がありましたが、それはオープンにしていくことによって、今度は逆に社会の方が広い意味でコントロールを始める方向にも入っていくのです。「役に立つ」ことをいい始めると、精神病院の壁を取り払っても、さらにもっと広い形の壁、「社会」という壁をつくり出すことになりかねません。

僕がなぜPort Bという団体と一緒に仕事をするのか。トークセッション2で、田中さんがPort Bのプロジェクトに共通していることとして「考えるプラットフォームを開く」とおっしゃっていましたが、それこそ「ダイアローグ」という場をつくっていると思うのです。できる限りオープンにつくっていき、あえて落とし所をつくらない話は先ほども出ていましたが、 Port Bという集団はそれをまさしく実践していると思います。継続もしています。トークセッション2でも話されていましたが、表現者としてはそれと同時に、責任をもって完成するポイントはやはり示さないといけない。「ずっとプロセスです」というのは非常に無責任で、何かしら示す必要がある。ただ、それを示しながらもそれは答えとはせずに、継続してやっていくことも重要でしょう。石原先生の話に共感する部分と、理論を細やかにしてかつ実践に近づける必要があるかもしれない、と思って聞いていました。

 

動き続ける現実と、それを切り取り編集すること

住友:猪股さんはトークセッション2で、あかつきの村を「漂流している船のような」とおっしゃっていました。固定させない何かがいつも動き続けるのが「漂流」だと思いますが、先ほどの北海道の人たちのあり方、あるいは赤城山の麓もそういう場所なのかとか、そういうことを考えながら聞いていました。ただ一方で、作品や表現は流動的で漂流的なものとして考えることは、なかなか難しい印象があることもよく分かります。

ここで作品や表現に結びつける、という今の猪股さんの話に近い質問が来ていますので取り上げたいと思います。先ほどのトークセッション2に関連したことです。櫻井さんが「表現の森」展でもPort Bの展示について、あかつきの村の「そのまま」「ありのまま」が出ていると表現していたことと、高山さんが意識的に編集をしていることの間には、それだけを聞くと少しギャップがあるような気もします。トークセッション1で、「デイサービスセンター えいめい」での映像の撮り方に関して話題が出たときに、話が時間切れとなってしまいましたが、石原先生は映像によって伝えることと、その場で実際に起きていることの関係性を気にされていたかなと思います。

動き続ける現実と、それをどのように捉えることができるか、その関係について先ほど時間切れとなってしまった話題も含めてお話していただけるようでしたらお願いいたします。

石原:先に猪股さんのお話に関してですが、社会化するときの危うさというのは結構議論がされています。例えばイタリアは精神病院をなくしたのですが、それはまさにおっしゃっていたような話がされていて、精神病院をなくしても社会全体が精神病院になっているみたいな話があります。オープンダイアローグは、なぜフィンランドの西ラップランド地方でうまくいっているかというと、地域全体がオープンダイアローグをやっているのです。そのキャッチメントエリア、つまり区域をしっかりとつくって、地域全体でやっているので実践できています。

次に映像の話ですが、ありのままを伝えるというのと、編集するというか切り取って伝える、という違いですよね。例えば、「べてるの家」にも何回か行っていますが、実際に行って体験することと、後で映像資料を見るときでは見方が違うことが当然あり、それは複数のリソースという感じがします。つまり映像も一つのリソースだし、自分の体験も一つのリソースで、むしろ複数のまさにポリフォニーのようなことだと思います。Port Bさんは連続フォーラムの報告を複数人でされていますよね。それも絡んでくるかなと思います。あるいはオープンダイアローグでいうと、まさに複数の視点という話になってきます。複数の視点で複数の資料を提示していくことが重要なのでは、という気はしています。ただ、そのときにやはりそれが複数の視点のうちの一つだとはっきり言わなくてはなりません。そこをきちんと言わないと、危うさがあるという気がします。

 

意味や価値を問わずに続けていく

住友:今の話はPort Bについての話ですが、トークセッション1の「えいめい」でのワークショップについても似たような質問が複数来ていまして、実は聞いている方たちは同じような関心をお持ちなんだなと思いました。例えばこの質問は「石坂亥士さんのお話のなかで、セッションをしていると変化する瞬間が訪れ、『今ここだっていうところで止めたくない』という気持ちがとても気になります。そういった場の変化をどう感じられたのか、どのように感じ取れるのかを聞きたいです」と。

それからこれはオープンダイアローグの話と関連していると思いますが「解釈や意味を捉えないでただ話を聞いて会話を続けるということ。それがどういうことかまだよく分かりませんでした。流れていくようなものをキャッチボールのようにしていく。意味を理解しない、または意味を解釈しないで続けていくことの意義をもう少し詳しく知りたい」という方もいます。これはおそらく演奏という場面で起きていることでもあるでしょうし、あるいは会話という場面で起きていることでもあるでしょう。この方は「健常者の方を相手と考えているときと、どう異なるのかが分からない」と加えられています。

石原:人間はもともと意味を求める存在だと思うので、意味を考えないことは実は無理な話かもしれません。先ほどのレクチャーでご紹介した話のなかで言われているのは、診断や障がい、疾患という型にはまった考え方で相手に先入観を持って、予想したり決めつけたりすることに対し、それはやってはいけない、ということをいっていると思います。インパクトがある言葉でいうために「解釈してはいけない」「意味を求めてはいけない」といっていると思います。

僕の言葉でいうと、それはむしろ新たな意味を求めているというか、コミュニケーションというのは最初に言いましたように、新しいものをつくっていく共同作業なので、そこで共通の意味、あるいは共通ではなく片側だけかもしれませんが、何らかの意味というものが、その都度生まれていくことが重要で、それをきちんとやっていくのがオープンダイアローグやあるいはグーリシャン(精神医学、1924-1991)たちが言っていることだと思います。

猪股:精神科医の中井久夫(1934-)の著書に看護師さんたちが精神疾患、特に統合失調症の人たちと関わっていく際のアドバイスのようなものを書いた本『看護のための精神医学』(医学書院刊、2001)があります。そのなかで、やはり「理解」というのは実は非常に暴力的なこと、といっています。ある局面を切り取り、こうである、としていくので理解は「信」に及ばないという言い方をしています。これは全くそのとおりではないかと思います。でもこの「信」もなかなか難しいものがあり、先ほど櫻井さんのいわれた「判断を中止する」というやり方。分かんないんだから、分かんないままに関わり続けるのはすごく大事なことだと思うし、僕はアートが一番上手にやっているのは判断中止作用ではないかと思います。でも下手すると、それはすごく大変なところに迷い込んでしまう。

ドイツの芸術家、アンゼルム・キーファー(1945-)が2011年3月11日の後、制作のためにドイツの廃炉になった原発を取得しようとし、話題になりました。その計画は上手くいきませんでしたが、あのときドイツは福島第一原発事故を受けて「脱原子力」を掲げました。原発を善悪でいうと「悪」と判断していく、と。でもそんな急に今までやってきたことを善悪の「悪」のほうにしてしまっていいんだろうか。そうすることは、原発の問題に限らずいろいろなことを善悪どちらかに染め上げていく、非常に危うい行為ではないだろうか。そのためにキーファーは、まず原発を買って判断を中止しよう、と。これが善なのか悪なのか、あるいは何か全然別の、よく分からない判断中止の宙ぶらりんの状態に自分たちをおく必要があるのではないか、という問い掛けを彼はしたのです。例えばそういうことが、アートのやり方の一つです。

キーファーに比べればもっと小さい部分ではありますが、僕らのような臨床心理士やセラピストが、患者さん一人ひとりに関わっていくなかで、この人が統合失調症だとかうつ病だとか、この症状がどうだとか、そういう判断を中止しながらどれだけ向き合っていけるかが非常に大事なのではないかと思っています。

:今の猪股さんのお話に続けてですが、石原先生のレクチャーのオープンダイアローグの部分で、「オープンエンディッド・クエスチョンズ(open-ended questions)」という言葉が出てきました。これは日本語に直すと、「答えのない質問」ということになります。答えがないというのは、ただ一つの絶対的な答えがないという意味であって、逆に無数の答えがある質問ということです。それで実は、そのアートを豊かに見ていくコツというのは、アートに一つの答えを求めないでいろんな人に質問していく、と。そうすると、10人いると、10種類の答えが返ってくる。それこそ皆で見ることの面白さにつながっていくわけですし、自分はこう見ていたけれどこんな見方もできるんだ、と。それが言ってみれば人生の本当の豊かさだと思います。人間は自分が実体験することと、間接的に読んだり見たり聞いたりすることでしか本当は何かを感じることはできないけれど、第三者の経験や人生を通してそれを垣間見ることができる。実はその部分に人間という共同体ならではの醍醐味があるのではないでしょうか。

ところが一般の社会では、答えのないものは非常にやりにくいです。例えば学校の成績。どの母親だって子どもの偏差値は低いか高いかでいえば高いほうがいいと思うでしょう。悪いほうがいいってどうしていえましょう。いい学校に行ってほしいし、いい会社に入ってほしい。そして原発は非常に難しい問題ですが、ほとんどのものはある意味で善悪を簡単につけてしまいがちです。

けれどもアートの世界は、実は作家自身も無意識に表現している部分があって、作品を見た人から教えてもらうこともあると聞きます。そういう意味で、精神医療や心理学などとアートはとても親和性があります。それがこの画一的な価値観に押し込めようとする社会にとって、非常に重要な風穴なのではないか、と思います。

最近は慣れてきましたが、高齢者施設に行くと最初の頃はよく、本当にここは異質な世界で、時が止まっていると思っていました。ここはどうしちゃったんだろう、と。そこに例えば美大生やアーティストとか全然関係のない人たちが突然やってくる。でもそれによって何かがすごく変わったのです。わずか1週間行っただけでも施設の雰囲気が確実に変わっていったのを感じました。

そういう異文化との接触は誰にとっても必要なもので、それを容易に可能にしてくれるのがアートなのはないでしょうか。1枚の絵を見たり、1つの彫刻を見ることによって、自分が考えもしないような作家の考えに触れる、またはそれを見てほかの人がどう感じたかに触れられる。そこには豊かさや寛容性があり、ありのままを認めるのがアートの世界だと思うのです。あなたはこうでなければいけない、というのは絶対に私たちのプログラムでもありません。そこがやはりアートの素晴らしいところで、強調していくべきだと思います。私たちのプログラムのなかで、認知症が治るとか、うつがよくなるとかは副産物であって、そうした結果を中心にアートプロジェクトを社会に広めていくのは危ないことだと思います。地域活性化だったり、過疎化に役立ったりというのも同じことですよね。これもアートが何かの代わりに役立つという形。そこはすごく気をつけなければいけないと私も思います。

 

誰をどこで撮影するか、誰と演奏を続けるのか

住友:社会がある面では、個人がどれだけ能力を持って社会に役に立つかというところに向かっている現状に対し、何らかの形でアートの役割を期待できないか、という話ですよね。例えば猪股さんがおっしゃったように、いったんそれを保留にしておくこともアートの機能でありつつ、それと同時に高山明さんだったら誰をどこで撮影するのか、石坂亥士さんだったらどこが気持ちいい演奏かを決めることも、アートのなかにあるすごく大事な部分のような気がします。それが解釈の暴力ではない、という部分に関しても大事なところだと思うので触れたいです。

会場から感想や質問もいただいています。亥士さんが自分で楽しむことが大事とおっしゃっていることに共感した、というご意見もありました。亥士さんはどこでそのポイントを見つけていくのか、高山さんは撮影する際の判断はどうしていらっしゃるのか、客席からになりますが、そのあたりのコメントをいただけますか。

石坂:初めて会った人はどういう人か分かりません。相手のことを知りたいと思ったら、会話やその人の雰囲気で、どういう人なのかを読み取っていくと思います。その過程を音でやる、ということだと思うんですよ。僕の場合は得意なことが音楽ということがあって、楽器を一つ介すことで、よりその人のことが分かります。こういう感じの音を出すと人はこうかな、とか蓄積した情報もあったりして。それで一つの楽器を2人で演奏したりするとより分かることがあるんです。

言葉では説明しづらいんですが、例えば絵の具を混ぜるとき、青と赤を混ぜるとじわじわっと紫に変わっていくような。色を混ぜるときれいな色になったり、汚い色になったりすることがあると思うんです。それが周りの人も同じように感じているかは分かりませんが、本人同士は確実に分かっているのです。

住友:それは石坂さんが感じているだけではなく、相手も感じていると感じられているんですね。

石坂:お互いですね。その人の性格が出た!というようなときがあって、それがお互いの良い部分が多少かみ合う変化の瞬間で、変化してからは良くなったりします。これは高齢者の方でも、子どもでも、誰でもそういう瞬間がやっぱりあります。

住友:ありがとうございました。高山さんは例えば今回の作品では、サンさんと佐藤さんを映像で撮ろうと決めたその判断はどのようなところにあったのでしょうか。

高山:作品ができたあとでいろいろと言うことはできますが、実際には自分が単純に面白いと思っているか、というところかもしれません。サンさんが長い髪の毛をわっさわっさと揺らしながら目の前を走るように過ぎて、車に乗るところを見ると「風の又三郎みたい」と思ってしまったり。そのサンさんに「サンくん」と呼びかける佐藤さん。「これは面白い」と素直に感じたところから始まっています。

最初に自分がボールを投げたとしても、投げた瞬間ではなく、あとから議論やリサーチなどを通して、言葉や考えがそのボールに追いつくような感じもあります。実はかなり直感で動いている部分があるんです。だからサンさんとの「何だろうこの人は」という出会いがなければ、今回の展示は違うものになっていたと思います。でも僕らではサンさんはうまく撮れない、というのもあり、佐藤さんに小さいカメラを渡して撮っていただきました。そして、その佐藤さんを僕たちで撮る。そういう順番でした。

 

「わからないこと」と「わかること」、その心地よさについて

住友:櫻井さんがトークセッション2で、これまでのマスコミによる「あかつきの村」の伝え方と今回の展示は違うとおっしゃっていたと思います。マスコミの場合は、視聴者はこういうものを見たいだろう、という部分を見せます。もちろんそれが「マス」メディアと言われている所以でしょうが、高山さんの場合は「風の又三郎みたい」といった本当に個人の感覚です。でもそうした感覚的な部分は誰しも持っていると思います。ただ感じているものをわざわざ形にせず、そのまま現実は流れていくわけです。アーティストはそれを何らかの形にしてしまう。それがほかでは見ていないものや、見ていても意識の奥に眠っていたものがフッと上がってくるような、そういう作品を見るときもあります。

先ほど猪股さんがおっしゃっていた「理解は『信』に及ばない」という話のなかで思ったことがあります。例えば学芸員の仕事をしていると、「作品のことをなんでも知っているんですよね」といった感じでよく接せられます。でも決してそうではなく、実は高山さんの頭の中も石坂さんの頭の中も、まるで分かんないわけです。仕事をする上で、分からないままに接しているところもあって。それが「信」という言葉に近いものなのか、分からないまま何かに接することに価値や意味があるのだろうか、と考えるときもあります。もちろん「美術は役立ちます」と対外的にはいっています。ただ実際はそれが何なのかわからないままやっていることも多くあるのが実情です。

でもそれが、なんだか心地良いと感じることもあります。「わからないもの」がたくさんあること自体が快になっている。これは人間の根本的な欲望と関係しているんじゃないかな、と思うところもあって。当然、私はなんでも知っているわけではありません。そのこと自体が、社会のなかで表現が存在することに意味を持たせているんじゃないかなと思ったりするときもあります。この部分は、もしかしたら福祉の現場との接点として考えてもいいところかもしれないと思いました。

猪股:さきほど、解釈の暴力はないんじゃないか、と住友さんが言われたあたりなんだと思います。解釈はしているじゃないですか。でも、それが別に答えだと言っているわけではないし、それを使って説得しようとしているわけでもない。

例えば、僕自身もユング派という精神分析、夢分析をやっているため、カウンセリングに訪れた方たちの見た夢を数十から100以上、毎週聞いています。夢の話をきいたあと、僕がそのときどう思ったか、解釈みたいなことを言ったりします。それは夢占いのようなもの、と言われたりすることがありますが、決して占いじゃないし、解釈はするけれどそれで説得しようとは全く思っていません。その夢から一つの僕なりの言葉を伝えただけで、そこで扉が閉じるわけではなく、その夢から僕が感じた何かを解釈することによって、むしろ扉がもう二つ、三つ開き始める。そういうことを目的にしていたりするのかなと思うんです。会話もする、解釈もする、レスポンスもしますが、それは決して説得じゃないし、答えを求めているわけではありません。どこをオープンにしていくか、ということを繰り返しやっているんじゃないかなと思います。

アートの作品を見ていて、「いいな」と思っても、大体わけがわからない。でも、わからないけれど魅力的だ、というときなんじゃないかと思います。扉がさらに先につながっていて、またいろんなことを考えたくなるし、もう一度見たくなるし、たとえば今日見たのと明日見たのとで全部違うかもしれない、というようなこと思い始めたりする。それは作品というか、ムーブメントそのものを見せてもらっているような気がしたりします。

住友:作品や表現のことに話が集中していますが、石原先生、お聞きになっていかがでしょうか。

石原:「わからないこと」があるのは、研究にもかなり使っています。研究は、研究者だけはでなく、人間にとって代表的な欲求だと思うんですけれども、分かんないことが分かるっていうのはすごく快感ですよね。その分かるっていうのは、教わるっていう場合もあると思うんですけど、自分で見つけ出すのは一番強い快感です。なんだか分かんなかったものが整理できて、あ、こうだったんだっていうことが分かる。以前、茂木健一郎さんがよくおっしゃっていたアハ体験みたいなものかもしれません。

それで、やっぱり僕はアーティストじゃないんだなと思ったのは、僕の感じからすると、やはり「わかりたい」。あるいは何か意味を見出したいということがあって、それが永遠に続いていくので面白いということはあります。わからないことそのものが快感というのは、どういう感じでしょうか。それを表現した、ということもそうかもしれないし、そういう表現を見たときにどういった快感を得られるのでしょうか。その辺りが気になりました。

住友:一つのことをわかろうとすることは、自立した自分の中の意味を考えるよりも、分からなくて誰かに例えばケアされるのに近いような、そういった相互依存の状態にあるほうが、もしかしたら自分としても気持ちいいのではないかなと思ったりします。自分が理解していないことに対して教えてもらうこともありますし、その辺りのことかなと思います。

石原:オープンダイアローグも似ているかもしれません。つまり、自分だけでは解決できないので、とりあえずつくっていき、続けていくことだけを決めて、実際にはどうやっていくのかはその場の不確実性に対応しながらやっています。

住友:では残り時間も少ないのですが、会場からのご質問をひとつ読みます。石原さんにお尋ねしたほうがいいかなと思います。「今日はアートの有効性ということで、福祉や医療の現場に対して話が多かった印象を持ちましたが、福祉や医療が社会との関係に有効性もある、というような新しい光の当て方もあるのでしょうか。その辺の可能性についてお聞きしたいです」。福祉のお仕事をされている方かもしれません。

石原:そうですね……。まず福祉や医療に無関係な方はいないかと思います。そういう意味で、例えばアートの場合だと、本来的にはアート好きな方は多いと思いますが、アーティストという感じになると「自分には関係ない」っていう人が出てくると思います。でも、福祉やケアはそうはいきません。

ただそういうことではなくて、福祉や医療の実践が、それ以外の分野の実践に何か影響を与えているか、ということだと思いますが、例えばオープンダイアローグは、医療で精神疾患の治療法として実践されてきたものです。そこで出てきたものはさきほど林容子さんもおっしゃっていましたが、やはり人間のコミュニケーションは、普遍的なものはすごくきれいな形で出てきていると思います。つまり、そのコミュニケーションが困難な人とどうやってコミュニケーションを続けていくのかを本気で考えていくと、普通はそこまで考えなくていいようなことも考えなければならず、そこでコミュニケーションの本質みたいなものが出てくる。そういう意味ではすごく大きなフィードバックでもあります。医療という枠で言うと、当然、医療現場で開発されてきたものは、医療以外の分野に広がることはよくあることだと思います。

 

「わかった」ところから抜け出し、問い続けていく

住友:ありがとうございます。石原先生には明日も引き続きお付き合いいただきますが、最後に林さんと猪股さんに、本日各セッションとこのラウンドテーブルに参加していただき、ほかの方の話を聞いたり、ご自分で発言されたりしたなかで印象に残ったことや、引き続き議論されるといいな、というコメントなどを最後にいただけませんでしょうか。

:私は自分に突きつけられた課題として、本当に今の社会の医療や福祉の現場にとってのアートとはなんだろう、ということをまた原点に戻って考えたいなと思いました。やはりどうしても目先では「アートを予算化してもらいたい」「この施設に取り入れてもらいたい」というのがあり、「こういう効果があります」など医療・福祉側の耳に心地よい言葉をつい言ってしまう。でもそうではないところにアートの本当の価値があるわけで、そこをどう伝えていくのか。医療・福祉に携わる方たちもプログラムに参加することで、自ら発見してくださることもありますが、そもそもプログラムに参加してもらうこと、受け容れてもらうために、何らかの形で伝える必要があるのかな、と。例えば「寛容性」や「ありのままを受け入れる」といった話は、医療や福祉の現場や高齢社会には親和性のあるものですよね。

それからもう一つ、やはり私も「わからない」。現代アートの仕事に携わってはいますが、実際私もわからない部分もたくさんあります。でも鑑賞プログラムに参加された方は聞くんです。「これはどういう意味なんですか。なぜ作家はこれをつくったんですか」と。でも、作家の代理はできませんので、「私もわかりません」と言いました。わかるふりをしてもしょうがないし、わからないことをわからないということが、実は結構難しいことですよね。「自分はわからないからこういう場所に来てはいけない」とか「わからないことを発言してはいけない」「間違ってはいけない」とか、そういう気持ちを誰しも少なくとも持っていると思いますが、それを「わからなくていいんだよ」といってあげたらいいのかなと思います。

私自身もアーツアライブの活動を続けてきて、いま壁にぶち当たっています。ここから先、日本でこういう活動を定着させるにはどうしたらいいのか。アメリカやヨーロッパのような体制もない日本で、こういう活動をいかに継続できるのか。やはり私だけの力では無理だな、と最近実は思ってきています。それで、「助けてください」と声をあげ始めたところなんです。でも、そこまでに4年もかかってしまいました。もっとみんなが「自分は実はこれに困っている」とか「これができない」とか、そういう自分の弱みや問題を共有できるような環境ってどうしたらつくれるのかな、と考えています。実はアートを通すことで、その環境はつくり出せるのではないか、と今日のシンポジウムに参加して感じています。

住友:「あれができます」「これができます」と競争するより、そのほうがいいですよね。

:すべての人が何でもできるわけではじゃないですものね。足が速くても、料理は下手かもしれません。だから、人は必ず素晴らしいところを持っていて、そこを見ていく社会になれば理想です。できないことは「できない」といえる、わからないことは「わからない」と素直にいえる、そういう社会をつくれたら、本当にそれはアートの存在意義になっていくのかなと思いました。明日のディスカッションも大変期待しております。

住友:ありがとうございます。猪股さんはいかがですか。

猪股:いま議論されていた「わかる」「わからない」の話ですと、僕は世の中にはある種、精神的な病気じゃない人はいないと思っています。例えば土居健郎(精神医学、1920-2009)さんという方が「わかる」について評論[3]を書いています。そのなかで、「わかってほしい」と思うのはうつ病の基本構造、「わかっている」と思うのは妄想狂の基本構造、「わかられたくない」というのはある種の脅迫的な精神構造としています。そうやって分類していまして、なかでも一番陥りやすいのは、おそらく「わかった」という部分だと思うんです。さきほど「アハ体験」とおっしゃっていましたが、統合失調症の人たちが急性期から慢性期に入ってしまう大きなポイントのところに「ああ、そうか」と思ってしまうこと、とよく言われています。「なぜ自分がこんな苦しい状況にあるのか。そうか、宇宙人が来て頭のなかに変な機器を埋め込んだからだ」と思ってしまうと、慢性期に入るんです。

この会場には、自分の頭のなかに何かを埋め込まれた、と思っている人はおそらくいないのではないかと思いますが、「そうか」という体験をしたことがある人は、ほぼ全員ではないでしょうか。それはいい体験でもあるけれど、危うい体験でもあるんだな、と思います。

なぜ僕は心理学のようなことをやっているかというと、人生や生きる価値みたいなもの、幸福みたいなものって、おそらく誰かに決められるものではないし、もし誰かに決められることがあったとしたら、非常に身近な誰かしかあり得ないと思います。社会に決められるものではありませんよね。自分で問い掛け直していきながら「これが幸せな感じかな」というのを見出していくには、わかってしまったところから抜けだして、自分や、自分の周りの人たちと、繰り返し問い掛け直さないといけないんだろう、と思います。それには福祉も医療もアートもいろんな方法を使いながら、努力してきているのではないでしょうか。

住友:ありがとうございます。石原先生には明日も引き続きお付き合いいただくということで、今日のパネルディスカッションは以上にしたいと思います。林さん、猪股さん、石原さん、それから長時間お付き合いいただいたみなさま、どうもありがとうございました。

 

[注釈]
[1] アーツ前橋にて「表現の森 協働としてのアート」展と同時開催していた「コレクション+行為と痕跡」展にて、林容子氏は対話型鑑賞プログラム「シニアツアー」を行った(2016年8月11日)

[2] Port Bの関連企画による連続フォーラムは、展覧会会期中、5回にわたって開催された。

[3]土居健郎『方法としての面接』(医学書院刊、1977)

 

(編集・投稿=佐藤恵美)

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